あわら温泉物語
沖村家の自宅は旅館の裏手の方にある。沖村家の朝は早い。
知世が台所で忙しく家族の朝食を作ると、長女の有衣十二歳、長男の久紀(ひさき)十歳、次女の実桜六歳がテーブルに着き、慌ただしく朝食を摂る。
生まれたばかりの航也はベビーベッドでスヤスヤ眠っており、高志はその傍らで既に食事を終えて、コーヒーを飲みながら新聞に目を通していた。芳ばしいコーヒーの香りが漂う。
「有衣、遅れるわよ。早く食べなさい!」
「久紀! 体操服、そこに洗ったのを出してあるから忘れないでねー」
そんなシャキシャキとした知世とは対照的に、ゆったりと高志が伝える。
「今日、ホテル美松の前田社長が来られるから、頼むね」
「はい。何か新しい組織を立ち上げられたそうね」
「うん、RATYとかいって、芦原と金津の青年たちを集めて、あわらの新しい魅力づくりをするみたい。大いに刺激になるよ」有衣と久紀が出掛けていく。
「行ってきまーす」「僕も行ってきまーす!」
「はい。気を付けてねー」漸く朝の戦争を終えた知世は、テーブルの上を片付けながら、「ふーっ、やっと終わった」と一息ついた。
高志は、知世を慈しむような眼差しで見守っている。「いつもお疲れさん」と労えば、知世は洗い物をしながら少し微笑む。
頑張り屋の知世は結婚以来、高志の妻、四児の母、義理の両親の娘、旅館の女将の四役を、細身の身体をフル回転させてやってきた。
常に屈託のない天真爛漫な明るさと人を惹き付ける優しさで、すっかり押しも押されぬ茜屋の顔として、あわら温泉に無くてはならない存在となっていた。
午後一時過ぎに、前田健二が茜屋に訪ねてきた。
知世が笑顔で前田を迎えてロビーに案内すると、事務所から高志が出てきて挨拶する。
「前田さん、いらっしゃい!」
「高志ちゃん、忙しいとこ悪いのー。しっかし、いつ見ても茜屋の透かし彫りの看板は貫禄があっていいのう」
「有難うございます。あれは先々代が特別に誂(あつら)えたもので、茜屋の家宝なんです。……ところで、今日はどういうご用件でしょうか?」
「うん、RATYを『湯けむり創生塾』と改名したんやけど、その手始めに黒川温泉のような『湯巡り手形』をやってみようと思うんや。それについて今日は折入って、高志ちゃんに頼みがあってのう」
「それは、どういう企画なんですか?」