壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事
(4)
どんぶりと箸を置いて、そろそろ行こうかと立ち上がりかけたときである。
「どけっ、どけ!」
一台の馬車が土煙をあげ、あたりの人をはね飛ばしかねない勢いで、突進して来た。
あぶないと思ったときにはもう鈍い音がして、数冊の書物が、宙を舞った。散乱した本の中に倒れていたのは―見おぼえのある僧形である。
「曇明(タンミン)様!」
「おお、叙達(シュター)、こんなところで会うとは、奇遇だな。だいじな本なのだ。ひろい集めてくれぬか」
師は眉間にしわを寄せ、脇腹のあたりをおさえている。
「やい坊主、この車に乗るお方をどなたと心得る? 道を歩くときは、ちゃんと前をみてないと、けがするぜ!」
馬車を先導する侍者が、罵声をあびせた。
「ええい、邪魔だ! さっさと道をゆずれ!」
「申しわけござらぬ」
「何をしておる。早く行かぬか」
車の中から、主人が顔をのぞかせた。
「うん? これは、もしかして、大千佛寺(だいせんぶつじ)の曇明(タンミン)どのではないか?」
師は、目礼をもって、こたえた。
「ああ、やはり、そうであったか。わが家の者が、たいへん失礼をいたした。私は皇太后陛下の弟、建昌伯(けんしょうはく) の張延齢(チャンイェンリン)にござる。者ども、けがの手当てをいたせ」
「なんの、その必要はござらぬ。かすっただけです」
師が、土ぼこりをはらってこたえると、車中の主人は、手にしていた煙管(きせる)をずい、とつき出した。
「皇太后陛下は、御坊の侍講を、いたく気に入っておいでだ。わしも一度、大善殿(だいぜんでん)で、きいたことがある。論旨明快、わしのような闡提(せんだい)のやからでもよくわかる、よい講義であった。御坊のように学德すぐれた僧が教化にあたれば、その感化は、宮中にひろがり申そう」
「過分なおほめ、いたみ入ります。ところで、何をそんなに急いでおられる?」
「歌舞をみようと思いましてな」
「歌舞?」
「南京礼部尚書の厳嵩(イエンソン)が、ぜひごらんに入れたい、とうるさくてな、招待に応じたまで」
厳嵩(イエンソン)? はて、どこかで……そうだ、漁門に来たその日、羊七(ヤンチー)といっしょに行った、豪邸の主人だ。
「そうだ、けがをさせてしまったおわびといっては何だが、御坊も、いっしょにいかがか? 出家といえども、花鳥の美しさにこころ動かされるのは、われわれ世俗と変わりはないと存ずる。それとも、無明世間の娯楽などは、無用かの?」
「………」
「これも、一種の喜捨とおぼし召されよ。厳嵩(イエンソン)は、わが舎弟のような男でな。わしが話しておくから、ささ、ついて参られよ、連れの方も」 思わぬ展開にとまどいながら、私は師とともに、豪奢な駱(くるま)車のうしろについて歩いた。
「曇明(タンミン)さま、大丈夫ですか」
「こんなもの、けがのうちに入らん」
言いつつも、脇腹をおさえる手が、痛々しかった。
「宮中で講経しておられたのですか? 全然知りませんでした」
「もともと、その任にあたっておられたのは、うちの住職なのだ。しかしもう八十を越えて、からだがもたぬと仰せられてな。不肖ながら、代役をつとめておるのだ」
邸の前で車がとまると、門房からふたりの下僕が出て来て馬をつなぎ、客人の到着を報せた。かざり提灯の、橙(だいだい)いろの光のなかにうかんだのは、骨ばった長身痩躯と、かぎのようにつり上がった眉である。
(これが、厳嵩(イエンソン)殿……)
羊七(ヤンチー )肉の配達に来たときには、姿どころか影さえもみせなかったので、その顔をみるのは、はじめてであった。曇明(タンミン)師を紹介されると、厳嵩(イエンソン)は、頭のてっぺんからつま先にいたるまで、じろじろと眺めまわした。
「存じあげておりますよ。該博な知識、深遠な議論は、 晋(しん)の支遁(ジドゥン)の再来とか。しかしこれは、うわさにたがわぬ美僧だ。宮中の女官どもに、根強い贔屓(ひいき)がいるというのもうなずける。むさくるしい小宅におはこび下さり、光栄至極にござります」
ぺらぺらとよく動く舌とはうらはらに、にこりともしない。彼は目はしをするどく光らせて、つけくわえた。
「もっとも、当家は、儒道(じゅどう)の二教をもってむねとしておりますれば、佛(ほとけ)の教えには無縁ですが」
「まあ、かたいことを言うな。このふたり、同席しても、かまわぬな?」
「建昌伯(けんしょうはく)さまがそうおっしゃるのであれば、もちろん歓迎いたします。観衆は多いほうが、役者の演技にも、熱がこもり申そう。厨房の者には、小吃(シャオチー)と酒をはこぶよう、申しつけてありますれば、おふた方には、ご自由におたのしみいただくことにして、ささ、建昌伯(けんしょうはく)さまは、こちらへ」
厳嵩(イエンソン)は、うやうやしく建昌伯(けんしょうはく)の手をとり、正房の奥へと消えてしまった。立ちつくす私たちの頰を、春夜の風が、ひゅーっとなぶった。
「帰りましょう。われわれはどうも、あまり歓迎されてないらしい」
袖を引っぱろうとしたが、師はその手をとどめた。
「いや、せっかくだから、その歌舞とやらを観ていこう。人の好意は、素直に受けるものだ」
「好意ですか? あれが」
ふくれる私に、笑顔である。
「あまりよくない意図がみえすいていても、ありがたく受けるのが、佛門の態度というものだ」
中庭には椅子と卓子がいくつもならべてあり、私たちはその一角に座を占めた。首(こうべ)をあげれば、舞台が目にとびこんで来る。この夜のために、主人がわざわざつくらせたのであろう。
酔客のひとりが、私たちの卓子に割り込んで来た。
「肚のすわった坊さんだねえ。どこの寺で修行なさった?」
師は答えない。
「寺にいるはずの坊さんが、なんでこんなとこにいる?」
「歌舞をいっしょにどうかと、さそわれましたから」
私は、師にかわって、こたえた。
「なんだ、おたくらも、鑑賞に来たのか。今晩の主役を知ってるか?」
「いえ」
客は紹興酒をあおり、大餅(タービン)をかじった。
「福建(フージェン)で、天才と称される少女がいる。厳嵩(イエンソン)殿が、赴任先の南京で見いだしたらしい。うわさにたがわぬ上手だったので、わざわざここまで連れて来たんだそうだ。今宵、彼は自邸をひろく解放して、同好の士に披露しようというおつもりだ」
「それで、建昌伯 (けんしょうはく)さまも、招待されたわけですね」
「厳嵩(イエンソン)殿も、いずれは政治の中枢に入りたいんだろうし、そのための口利きを建昌伯 (けんしょうはく)にたのんでるんだろうぜ。中じゃあすげえ額の銀(カネ)がうごいてるな、きっと。建昌伯 (けんしょうはく)ってお人は、千両の銀を積まれても、小銭みたいな感覚らしいからな。
ひと昔まえ、あの役まわりをつとめていたのは、宦官だったんだ。八虎のうちのひとりは、 二百五十万両も、黄金をため込んでたそうだぜ。いまの嘉靖帝が即位されてからは、宦官もそうそうのさばれなくなった。そのかわり、皇太后さまの外戚がデカイ面してるってわけだ。お、ほら、あそこを見ろ」
薄紅(うすくれない)の、あでやかな衣裳をまとった少女が、唇をきゅっと結び、ややうつむきかげんの姿勢のまま、じっと出番をまっている。
「あれが曹洛瑩(ツァオルオイン)、舞台の主役だ」
「あの子なら、知っておりますぞ」
師が言うと、酔客は目をまるくした。
「修行にいそしむ坊さんが、俗世のおどり子を知ってるとは、どういうわけだ?」
「父親に連れられて、寺に詣でに来た」
「ほう」
「そのとき、父親が言っていた。『自分は福建(フージェン)でお仕えをしている者だが、このたび所用あって北京にやって来た、そのついでに、この子が、さる身分の方に見いだされ、演技を披露することになっている』とな」
「へーっ、そいつは奇遇だ! そんなこともあるんだな。あの娘、まだ十四歳だってよ、たったの十四歳で、 江南無双のおどり手だぜ? 三十になっても、四十にな っても、うだつのあがらねえ男がたくさんいるっていうのにな。生まれるなら女、それも美人だってか? 不公平なんだよな、世の中ってやつァ」
ぐび、ぐびと酒をながし込む。 曇明(タンミン)師は、にことわらった。
「人間、本来は無一物だ。生まれ落ちるときも、死んで三途の川をわたるときも、何ひとつもって行くことはできぬ。それを思えば、学問の合間に、うまいものにありつけるのも、ありがたいことではないか」
「なに言ってやがる。あんたなんぞにわかってたまるかよう」
酔客は、しばらくくだを巻いていた。何年も科挙(かきょ)に失敗しつづけているらしい。 中庭には、いつのまにか厳嵩(イエンソン)があらわれ、建昌伯(けんしょうはく)に、 上座をすすめた。
彼らをとり囲むようにして、五つの排鼓(はいこ)と、箏(そう)がならべられ、四胡(しこ) 、笙(しょう)などをもった楽工が、 今やおそしと、開演の合図を待っている。