普及の工夫と苦悩 太田雄貴
日本フェンシングの「顔」として思い浮かべる時、おそらく真っ先に上がるのはこの人ではないだろうか。
太田雄貴。日本フェンシング協会前会長であり、日本フェンシング史上初の五輪メダリストだ。
小学3年生からフェンシングを始め、すぐに頭角を現すと平安高校(現龍谷大学付属平安中・高校)2年時には日本選手権の男子フルーレ個人戦を最年少で制覇。世界選手権の日本代表メンバーにも抜擢され、2004年のアテネ五輪に初出場を果たし、2008年の北京五輪で銀メダルを獲得した。
自身だけでなく、むしろそれ以上に周囲が待ちわびて、待ちわびた末にたどり着いた「五輪でメダル獲得」という快挙と、明るいキャラクターが人気を呼び、メダル獲得後はテレビを始めとするさまざまなメディア出演や、イベントや講演に寝る間を惜しんで全国を飛び回った。
体力的にも精神的にも疲弊していたが、自身が出ていくことでフェンシングの普及につながるなら、と必死だった日々。
「(北京)五輪へ出発する前は取材が2人だったのに、帰ってきたら3か月休みなし。テレビに出させてもらう機会も多くありましたが、周りは1人のタレントさんに4、5人のマネージャーさんがついて行く中、僕は1人。慣れないことだらけでしたが、社会勉強の場でもありました。
今思えば、僕にあれだけ声をかけていただいたのも〝意外性〟ですよね。フェンシング〝なのに〟メダルが獲れた。これが柔道のように常勝競技であれば、柔道〝なのに〟メダルが獲れなかった、と注目される。その切り口に、僕は間違いなくハマっていたんだと思いますね」
次回更新は7月31日(水)、21時の予定です。
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