普及の工夫と苦悩 太田雄貴
アスリートファーストだけでなく、その先の未来も見据えたアスリートフューチャーファーストを掲げ、会長としてさまざまなことに取り組んできた4年間。
ことに東京五輪へと目を向ければ、本来太田が〝アスリートファースト〟のもとで描いたのは満員の会場で、選手がベストパフォーマンスを発揮する光景。
そのために協会としてできるのは満員の会場をつくること、とばかりに、日本選手権をパッケージ化して集客し、学校訪問を重ねることでフェンシングへの興味関心を高めることに大きな役目を担い、果たしてきた。
次期会長には、太田自ら直談判し、何度も説得して口説いたと言う武井壮氏が就任。「自分にできるサポートはする」と公言したため、就任当初は毎日のように連絡を取り合ってきたが、武井体制になって初の日本選手権も初の屋外開催となった六本木ヒルズアリーナで無事、盛況の中閉幕した。
日本フェンシング協会が新たな未来へ進み出すように、太田自身も新たな未来を見据えている。その第一歩が、日本人として初となるIOCアスリート委員への立候補であり、選挙を経て当選を果たしたことだ。
北京五輪で銀メダルを獲得した2008年にIOCアスリート委員の存在を知り、興味を抱いた。その後、選手としてのキャリアを重ね、招致活動にも携わる中ルールを守る側からつくる側に回らなければ変えられないことがいくつもある、と実感し、招致活動を終えてからは本格的にIOCを目指そう、と視野に含んできた。
各国からアスリートが一堂に会する東京五輪の最中は選挙活動期間でもあり、絶好のPRの場でもある。猛暑の中、気温が高くなりすぎない朝早い時間から選手村の食堂付近に立ち、各国の選手に話しかけて自身が立候補していることを伝える。
午前中から昼過ぎにかけて、前半はフェンシングを中心にさまざまな会場を回り、また夕刻になれば選手村へ戻り選挙活動をする。これまでとは異なる忙しい日々を過ごす中、日本フェンシング界初となる男子エペ団体の金メダルも目の当たりにした。