男は、樹木から飛び乗ったアパートの鉄の階段をゆっくりと降りながら、ポケットからタバコを出すと、目を細めて火をつけた。

四人の前に戻ってくると、何事もなかったかのように、

「まず、この欅の樹を少し、何とかしましょう。思い切って陽の光を覆っている枝を落とす。そうすると、中庭全体が明るくなる」と言った。

「実はね、いま庭の木々たちに、挨拶をしてきたのです。私なりのセレモニーとしてね、彼ら植物たちに通じる秘密の言葉で」

庭師は両手を腰の後ろで結び、手品師が一つの演目を終わったあとで観客の反応を楽しんでいるように、笑っている。

「あなた、体操の選手でも、やってらして?」

皮肉っぽい鑑定士のような目をした黒崎耀子が、わざとらしい、異様にゆっくりとした言葉遣いで、いった。

「いや。でも、まあ、そんなとこですか。二十代の一時期、鳶職をやっていたことがあるから」

「トビ職さん? 高いところに登るのがヘイチャラな、トビ職さん」彩香がうきうきと反応した。辰郎が一時、バイトをやっていたのだ。「ほかに、どんなお仕事を、されていたんですか」

「おやおや、彩香。興味しんしんねえ」

割り込まれた耀子が、つっこむ。

「あはは。ここでそんな話を聞かれるとは、思わなかったナ。……そうですねえ、道路工事。大工の真似事。生きるためには、いろんなことをやってきました。犯罪こそ手を染めなかったが、興信所の探偵、サラ金の取り立て屋、エロビデオ屋の店員、原発の危険領域の作業員。競輪選手見習い、上野の森のホームレス。屋台のラーメン屋、路上のアクセサリー売り。原宿あたりでね。イスラエル生まれの友達ができた。そこで、自分で描いた絵も、売ったことがあります」

「似顔絵売り?」

「当たりです。上野や、代々木公園でね。まだあんなに混む前の話ですが。それなりに人だかりができて、外人観光客には、好評だった」

「なんだか、役者さんみたいだわねえ」

睦子が感心して、顔をしかめて頷いた。

「かもしれません。他にいろいろ。私の技術があったら、泥棒だってできないことはない。団地で使っているシリンダー錠など、二分で開けてしまう。なんてね。ええと、ご安心ください。さすがに、いまはやりませんよ」

庭師は笑った。目のあたりが藍色に翳った。

その笑顔には、どきりとするような魅力があった。それから、ちょっと待ってください、と言って、庭師は店内の方へと消えていった。

「いまは、か」と耀子はつぶやいた。「それ、ちょっと、まずい話ね」

冷静に否定しながらも、黒崎耀子は内心、こいつの笑顔、けっこういいかも、とつぶやいた。

でもそれは、キャスティングするときのプロの感覚だけど、と自分にいいきかせた。

雄の麝香鹿の放つような暗い華やぎは、彼女を少し不安にさせた。たった今どきりとさせたものって、いったい何だろうと、彼女はしばらく、考え込んだ。

葉群の向こうを、まばゆい光の輪郭に縁取られた雲が流れていった。

それは昔、近所の男の子が、木登りの途中で振り返ったときにふと見せた、あの切なくなるような笑顔の記憶だった。

レイ君。そうだ、脇島玲くん。耀子はハッとして顔を上げた。木洩れ陽に彩られた日向の少年のはにかむような微笑。大抵の男どもが、大人になってひとかどの社会人になると、急速に失ってしまう、あの切なくなるような表情なんだわ、と耀子は独語し、意味ありげな面持ちで庭師を眺めた。

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