槇村正直と山本覚馬は、もともと京都人ではなかった。そんな彼らが、協力してヨンケルの招聘に尽力してくれたのだ。彼らは京都復興の中心人物でもあり、東京に負けじと、近代化を強力に推進していた。

中でも教育と学問は、文明開化の象徴で、京都府が最も力を入れていた政策だった。明治二年には、地域住民が出資者となり、華士族以外のすべての子供が通える、日本で初めての学区制の番組(ばんぐみ)小学校が開校した。

明治三年になると、ガラスや石鹸の製造研究と技術者を養成する舎密(せいみ)局が岡崎に開設された。また今年の五月には、丸太町橋の東に女子の教育機関である女紅場(にょこうば)ができた。

これらの革新的施策を、京都府は次々と実行した。そしてその一環として、明治四年に明石博高が病院設立の建議を提出した。

長崎でポンペが行ったように、西洋式の病院と医学校を建設する計画だった。外国人医師の招聘も決定したが、このときは府の財政難で、いったん否決されてしまう。

すると明石らは、京都の仏教界に働きかけ、資金援助を取り付けた。また市中医や薬舗などから、上納させることに成功した。さらには、花街からも冥加金を徴収することが決まり、こうして今回、ようやく京都療病院の開業にこぎつけられたのだ。

「今日は存分にお楽しみください」

明石博高が、ヨンケルを頼もしそうに見て言った。病院設立の責任者で、自ら医師でもある明石の期待は、並々ならぬものがあるようだった。

「まずは、一献──」

槇村正直と山本覚馬が酒の銚子を差し出した。ヨンケルは、「ダンケ・シェーン!」と、ドイツ語で恭(うやうや)しくそれに応じた。

ドイツ語を知らない彼らのため、大木玄洞が逐一通訳してやっていた。万条と安妙寺も、宴の端でその会話に耳を傾けた。

「もうじき、新京極通が開通します。これで京都も、ますます元気になりそうですな」槇村が自慢げに言った。

それは槇村自身の発案で、沈滞した京都の産業の復興を意図したものだった。

今年三十八歳になる槇村は、明治三年に京都府の権(ごん)大参事に就任すると、すぐにさまざまな政策を打ち出した。欧風志向が強く、五山の送り火を禁止するなど必ずしも評判は良くなかったが、京都人以上に京都の復興に尽力していたのは確かだった。

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