秋蝉の顔から血の気が失せ、小刻みに肩が震え始めた。

「なぜ、揚州へ行きたいのだ!」

「お願いでございます。秋蝉を閣下のお側に置いて下さい、一人長安に残さないで下さい…………私に頼る身よりはおりません。私は閣下の家姑なのです。どんな言い付けも聞きます。これまでの無礼な行い悔い改めお仕えいたします……お連れ下さい、お願いです!」  

李徳裕の足許にひれ伏し、潤む赤い目で見上げた。予想もしなかった秋蝉の変容に驚き、李徳裕は言葉もなく足許で震える白いうなじを見詰めていた。気位が高く強情と思われた秋蟬のか弱く脆い部分を見た思いに心が動いた。

「裏がある……秋蟬は何かを隠している。それなら探ってみるのも一興」と、望み通り目立たぬ形で従者に加え黄河を下る船に乗せたのだった。

「昨日、新帝敬宗から揚州の綾絹を献じるように勅命が下った」

浙西節度使として揚州で治世を執る李徳裕の前に居るのは、同じように長安から、揚州に下った進士官吏曹国文だった。

曹国文は六尺あまりの体躯を持ち、丸顔で眼が大きく、接する人に好人物と思わせる雰囲気を持つ三十二、三歳に見える男だった。

「えっ、誠ですか?」

「これが世間知らずの天子様が出された勅命だ」

李徳裕が苦り切った顔で曹国文の前に勅の書状を広げて見せた。

「職人に最良の綾絹を織らせるよう命じるのですか?」曹国文が思案化に李徳裕の顔を覗き見た。

「年若い天子様は宦官や牛党の輩に操られ、国状も分からずこのような不遜な要求をしてくるのだ!」

曹国文は冷静な顔に戻り、李徳裕の次の言葉を待っていた。

「各地で藩鎮が割拠し国の安定が脅かされ、飢饉が続き人民の生活は困窮している。国家の財政に余裕がない中、皇帝だけが贅沢に溺れるなど、許されることではない。儂は書面を以て天子様に今の唐の国状をご説明し、綾絹の献上を思い止まるよう進言するつもり」

曹国文は李徳裕の英断に驚いたように目を見張ったが、戸惑いながらも「それがよいと思います。年若い天子様が揚州の綾絹に深い関心を持たれ、是非とも綾絹が欲しいと望んだとは到底思われません。腹黒い宦官や、牛党の入れ知恵で李閣下を困らせようと画策したとしか思えません」

「其方もそう思うか」

「はい」

「このような常軌を逸脱した勅命に従えば、さらなる難題を要求して来るのは明らか、早いうちに具申するのが肝心と思うのだ」

「はい、私もそれを危惧します」 

「王守澄や牛党の輩が若い皇帝を私怨の道具に使っている」

「天子様の心からの要求とは思えませぬ」

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