Ⅰ 東紀州 一九八七 春

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「おはようございます」僕の挨拶と同時に、

「倉嶋君、おはよう!」

外務主任の上地から活舌の良い、明るい声がいつものように返ってくる。

ただ、不思議に周波数の高い彼の声は、どうも腹話術の人形の声を連想してしまう。

─そう思っているのは僕だけであろうか? 笑いを堪えながら頭を下げる。これが僕の一日のスタートボタンになりつつあった。

「倉嶋君、おはよう! 本日もよろしく!」

僕の挨拶に対し、局長からも張りのある声が掛かる。僕は局長の事務机の横に立てかけてあるA5サイズの出勤簿を開くと、自らの勤務欄に押印をする。この一連のルーチンワークが済むと、南牟婁郵便局での一日が始まるのである。

六月から七月にかけての東紀州は、とにかく雨が降る。今日も朝から雨である。すでに一週間以上は雨が続いていた。

「今日も天気が悪いなぁ……。ところで、少しは慣れたか?」

「『五月雨を集めてはやし最上川』って芭蕉は詠んでいるが、この地域の五月雨を集めたら黄河のような大流に匹敵するかも知れんな。この地域は間知石(けんちいし)に使われる固い花崗岩だから、地盤の水捌けが頗(すこぶ)る良いので助かってるけどな……。ところで唐突だけど、中国の黄河にも漁師はいるのかな。倉嶋君、知ってる?」

肌にまとわり付くような、じっとりとした陰湿さとは裏腹に、古山局長の笑顔と声はその場を爽やかに明るくする。

「それよりも、あの茶色の泥水にいる魚は食べられるんですか?」傍らにいたパート職員の大西敏子が話に突っ込みを入れると、

「そう! 僕は梅雨で増水した川を見る度に、あの茶濁色した黄河を連想してしまう」

古山局長がすかさず相槌を打つ。

「鯉やフナやナマズがいるらしいですよ。それからライギョの小さいのも四川料理では食べるらしいです」

僕がそう答えると、

「確かになぁ。TVで見たけど、アマゾン川やベトナムのメコン川なんかでも魚を料理して食べてたよな。田沼意次じゃないけど『清い水には魚は棲まない』というし、ぼくのようにいい加減な方が結構おいしくて味があるかもな」