父の死と仕事
高校3年の1月13日の金曜日、ちょうど大学受験の頃、父は突然心筋梗塞で亡くなりました。前日はテニスをしていて、胸が痛むと早く帰宅していました。医者は「絶対安静」と言って、特に何もせず帰っていったそうです。
当時はまだ珍しい病気だったので、今のようにはいかず悔やまれます。父は、1945年、長崎の原爆投下の翌日にその後始末に出かけており、それも早死にの原因になったのだと思います。寒い冬の日にもかかわらず、お葬式には長蛇の列ができました。
バスでかけつけてくださった方々も大勢いたと聞いています。その時、いただいた「勲三等」は母へのご褒美だったと思います。
当時、大学進学まで目指す女子は多くありませんでした。私は父の死もあり、短大の英文科を受験し、日本航空株式会社のスチュワーデス(CA)を目指しました。
身長が157センチと少し低かったのですが、中学校の教科書を読み直して準備した一般常識の入社試験で抜群の成績を収め、無事入社することができました。ただ、スチュワーデスになってもあまり愛想の良い方ではなかったので、チェッカーにはもっと笑顔でお客様と接するようにと言われていました。
ちょうど日本航空が世界一周線に就航する頃、4年近く海外の空を飛びました。それぞれの滞在地で何泊かできて、一流ホテルに泊まり、観光もショッピングもできるという恵まれた仕事でしたが、時差との戦いでもあり、体調を崩して退社しました。
その後うつ状態の時期が長く続きましたが、産経スカラシップでフランス留学中の兄の後を追って、ヨーロッパに向かいました。しかしそれでも体調は回復せず、日本に帰国後しばらくして、精神科の病院に入院することになりました。
躁うつ病(双極性障害)と診断されたのです。医師の指導のもと、入院2か月目から工場に通って単純作業をし、退院後の職場(保険会社)が見つかると、3か月で退院しました。
保夫さんとの出会いと結婚生活
短大時代は都庁を始め、いろいろな職場でアルバイトを経験しましたが、結婚するまでは日本航空を含め4か所の職場で働きました。
3か所目の日本コンベンションサービス株式会社(国際会議を援助する会社)で翻訳者として働いていたのが、勉強会の仲間の一人でもあり、後に夫となる保夫さんでした。
出会った当時、私は27歳、保夫さんは26歳でした。共に英語の勉強会に参加していましたが、保夫さんと私の英語力には大きな差がありました。
英語のスピーチ・クラブ(トーストマスターズクラブ)のメンバーだった保夫さんは、アメリカ人に混ざり、互角の力を発揮できるようにと、緊張からくる腹痛をものともせずに頑張っていました。アメリカの英文週刊ニュース紙『TIME』を読み込んで熱心に勉強し、森先生の指導の下、実力をつけていたのです。
【前回の記事を読む】アメリカでの子育てや生活、職場の違い。アメリカ移住した夫婦の自伝的エッセイ。