第二章 飛騨の中の白川郷
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「儲かってはいたろうね。特に需要が高まったのは幕末期。ペリーが浦賀に黒船で来た頃の白川郷の塩硝生産量は二十二トンだそうだ。米に換算すると、九〇〇石くらい。白川郷で一番米のとれるところは飯島。そこで明治初年に一一九石だ。あとは荻町で一〇〇石くらい。あとの区では、三石とか一桁のところもあって、悲惨なものだよ。全村の米の収穫が二〇〇石くらいなのに、その五倍近くを塩硝から稼いでいた。当時の村の人口は二四〇〇人ほどだから、相当豊かな村だと言えるね」
「やっぱり。そうでなければ、能登大工を使った豪邸など建てられないですよね」
「うーん、見事な建築という意味では豪邸だけど、ちょっと違うんだ。ただの豪邸ではなく、住居兼火薬工場なんだよ。合掌造り特有の大屋根は、床下で作る塩硝が雨に弱いから、家全体をすっぽり包む必要があったからだ。巨大な床面積は、いわば床下が塩硝の畑だったから。なんで三階、四階建てかといえば二階以上で大規模な養蚕をしていたから。
というのも、塩硝の原料にはカルシウムが中和剤として必要で、それをこの村では大量の蚕糞から取っていたんだよ。で、人間の暮らしのスペースは、一階だけ。そしてその一階の居間に大きな囲炉裏があるのは、床下の土を温かくして土壌菌を働かすため。囲炉裏近くの床下の土の硝酸濃度が一番高いよ。つまり、合掌造りは、工場としての機能をすべて満たした建物だったんだよ」
「凄いですね。全然無駄がなくて、非常に合理的な建物ということですね。それでいて、工場という目的だけの無機質な感じではないですね。やっぱり人が住んでいるからかな。合掌造りには温もりがありますね」
「そうね。昔なんか、生身の人間が三十人も四十人も一つ家の中で暮らしていたんだからね。ついでに、なんでそんな大家族で暮らしていたかと言えば、大量の人尿が必要だから。塩硝は化学的に言うと、硝化カリウム(KNO3)で、窒素が入っているんだよ。そして尿のアンモニア(NH3)の中にも窒素が入っている。だから人尿が塩硝の主成分で一番大事なの」
「ほんとですか。大量の尿が必要だから大家族だったのですか? 僕は、ここは平家の落人の村という言い伝えもあるから、平安貴族の通い婚の婚姻形態が残っていて、それで大家族なのかと思いました」