はじめに

私は今、七十歳をちょっとばかり過ぎた中途半端に平凡な主婦だ。九州で夫と共に時々喧嘩しながら仲良く暮らしている。

二人の子供は既に独立していて、少々変わった仕事をしながら毎日を送っている。そんな私がバブル景気に日本中が浮かれていた頃から、バブルが弾けて日本済経が暗転した頃に経験したある出来事によって、「神との縁(えん)」に気づいた経緯を認めようと思ったのは何故だろうか。

もとより宗教的なことが大の苦手だった私が、神とか、霊界、神霊の世界といったことを語ったとしても、誰も耳を貸そうとはしないだろう。

しかし、手相、観相、暦といったことに興味を持つ人が多いのも事実だ。

ある宗教にのめり込む人もいる。それはなぜか? 

人知(じんち)を超えた所に何かが有る、という思いがそうさせるのかもしれない。

私の場合はある出来事が切っ掛けで、この世には不可思議なことが多いと気付かされてから、深くそのわけを知りたいと考えたことが始まりだった。

ここでいう神縁とは、魂(心)の浄化と成長に不可欠となる『災い』のことを指す。

突如として襲ってくる災いをひたすら乗り越えることが心の成長に繋がるという考え方は、然して珍しくもなく、自らの体験を通してそれを実感する人は多いはずだ。

そしてその災いは、自分自身の考え方に伴った質と量の災いを引き寄せる。しかし、この災いは自分が引き寄せたものではなく、あくまでも自分は被害者の立場だと思う人も多いと思うが、まずは最後まで読んでもらえることを願う次第だ。

自分自身の間違った考え方と同質同量の災いを自らが引き寄せる、つまり、身から出た錆、という当たり前の考え方が自分の心の中に揺るぎない土台として確立した時、それに準じてこれらの災いを引き寄せた本来の間違った自分の考え方は、もしかすると神の守護や慈悲から来るものかもしれない、と考えることができるようになる。