一、壁

心の壁

社会には壁が無数に存在する。受験、資格、認定基準などである。

これらも、必要なければ存在しないと同じである。新しい言語を習得するには多くの壁がある。手話を例にとれば、先天性聾者はひどい壁に囲まれている。壁は多くは周辺の家族によって穴が開けられる。

これを次第に大きくし、口話などの手段で繋がる。特殊学級などに参加し、社会と繋がっていく。中途難聴者は既存の聴覚に頼る気持ちがあり、手話の習得に時間を要する。大きな壁だが、これには高さがあり、努力で少し低くしていく。

壁がなくなるかどうかは本人が諦めないかどうかにかかっている。多くの指導書があり、辞書がある。社会での認知は最近とみに多くなった。壁はなくならないが、無視できうる壁と言えるだろう。      

誰もが壁を持っている。自分の心に関係するか、社会の在り方に由来するのか、様々である。女性がぶつかる男社会での壁は現在の問題である。

その際、壁を破るか、壁にぶつかって横にそれる(諦めて別の道を探す)かは、個人の決めることであるが、しかし、関係者の努力で、次第に壁は低く、またなくなる方向にある。

国連が定めたSDGsの「誰一人取り残さない」方向も、誰一人にも壁を抱かないことに通じるが、最終的には個人の心にある壁をなくすことであろう。

同様に、LGBTへの差別感、壁についても同じである。これは現在の大きな流れで、誰も拒否できない壁の除去であり、壁の存在否定ではなかろうか。法律上の審議が議会でも進められている。

過去の考察

壁には古くから多くの考察があるようである。プラトンは「洞窟の比喩」で、囚人が洞窟の奥の壁の影を見ている。彼らには影は物理的な現実。

ある一人が解放されて目にしたのは実体の形に似せて作られた石や木の疑似物体、これでイデア論、さらに二元論を論じている。現実の世界と魂の世界があるという。

ちなみに、現在のテレビ、映画などは、壁を通して見ている。その画像はスタジオでのセットを撮影したもの、何か「洞窟の比喩」と似たものを感じる。同じ画面を見続ければ、視力に影響することも指摘されている。この所見も「洞窟の比喩」と似ているところがある。