仕官
時は太閤・豊臣秀吉の治世、文禄五年(一五九六)の初夏。京の都の南にある伏見──。
古のみやこびとに愛された、風光明媚な巨椋池(おぐらいけ)が眼前に広がる「指月(しげつ)」と呼ばれるこの地に、秀吉は聚楽第(じゅらくだい)に代わる政治の一大拠点・伏見城を築城。従う大名たちも、こぞって城下に屋敷を構え始めていた。
元々指月の地は、月見の名所とされ、平安貴族が好んで別荘を構えたという逸話が残る。秀吉もこれに倣い、関白の座を甥の豊臣秀次に譲ったのち、隠居所をこの地に構えていた。
しかし、その秀次が前年に失脚し、自刃して果てた。秀次に譲っていた聚楽第の破却が決まり、秀吉の権力再掌握とともに、政治の中心がこの指月に移動し始めていたのである。
初夏を迎えた巨椋池は、名物の蓮が競って花をつけ、岸辺はまばゆい緑と薄桃色で覆われていた。
その伏見城下に、このほど新たに完成した奥州の雄・伊達政宗の屋敷があった。政宗の側近中の側近、片倉小十郎景綱は、家中に降りかかる数多の難題に頭を悩ませつつ、土壁も乾かぬうちからこの屋敷に張り付き、政務に多忙な日々を過ごしている。
そんな折、遠く東国から、二人の侍が小十郎を訪ねてきた。侍は父と息子で、父は伊藤肥後信氏、息子は伊藤三右衛門氏定という。
伊藤家は代々、源頼朝の奥州征討以降、奥州の地を治めた葛西家に仕えたが、その葛西家は、先年の秀吉の「奥州仕置」で、小田原参陣に応じなかったことを理由に、隣地を所領としていた大崎家ともども改易となり、家臣団は跡形もなく解体。浪人となった伊藤家は一家離散の憂き目に遭い、父と息子はただ二人、行く当てもなく、諸国を放浪していた。
二人とも揃って、険しい放浪の旅の軌跡を刻むような、皺だらけの顔、浅黒い肌に瘦せこけた体躯(たいく)であった。
しかし「これぞ伊達者」と、京の都で洒落者として名を上げつつあると聞く、伊達政宗の屋敷を訪ねるにあたり、粗相があってはならないと考えた親子は、着物だけは何とか新たにあつらえて臨み、これが妙に浮いて見えた。
「申し上げます。伊藤肥後殿、三右衛門殿、小十郎様にお目通りを願い出ております」
「おお、来たか。早速通せ」「ははっ」
「伊藤肥後信氏、罷り越しました。此度は片倉小十郎様に目通りが叶い、恐悦至極に存じ奉ります。こちらに控えるは倅(せがれ)、三右衛門氏定にございます」
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