第一章 忠と義と誉と 文禄五年(一五九六)~正保二年(一六四五)

仕官

「伊藤肥後が嫡男、三右衛門氏定にございます。此度はご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉ります」

「遠路大義! 肥後殿に三右衛門殿、よう参られた。ささ、固い挨拶は抜きじゃ。おう、茶を持って参れ!」

「ははっ」

「肥後殿、之(こ)は京で名高い宇治の茶ぞ。さあ召し上がられよ。遠慮なぞ無用じゃ」

小十郎、信氏、氏定は、出された宇治茶を音を立ててすすった。

「有難き仕合(しあわ)せ。この肥後、かようなまでに美味い茶、生まれて初めてにござる……。いや失礼仕り(つかまつ)ました。此度は片倉様の格別の思し召しにより、伊達家に仕官叶い、何と御礼申し上げてよいやら……。倅ともども、感涙にむせんでおります」

この親子が伏見伊達屋敷を訪れたのは、このためであった。信氏が小十郎に宛てた、伊達家仕官を願う文が彼の目に留まり、幾度か文を交わすうち「ぜひ伊達家に仕官を」と、小十郎の誘いがかかったのだ。

「先年の奥州仕置以来、葛西衆に大崎衆、皆路頭に迷い、太閤殿下の『牢人取締令』でさらに行き場を失い困窮していると聞く。むごいことじゃ。葛西遺臣の肥後殿も、さぞ苦労なされたことであろう」

「はっ、仰せのとおりにございます。それがしも一度は南部家に仕官したものの、どうしても家中になじめず、倅ともども、諸国を浪散する日々。行く当てもなく、路銀も底をつき、明日をも知れず……いっそ二人で腹を切って果てんかと、幾度思案したことか……」

不意に、信氏の膝に涙がこぼれ落ちた。斜め後方に身を固めて座っていた氏定がこれに気づき、慌てた。

「父上……。片倉様、誠にお見苦しいところを。申し訳次第もございませぬ」

「いや三右衛門殿、苦しゅうない。儂(わし)も肥後殿やそなたの苦境を思うと、涙が落ちそうじゃ……。ときに肥後殿、そなたから届いた書状で、当家・伊達家にそなたを召し抱えようと、儂が決めた理由は何か分かるか?」

「いえ……」

「肥後殿の書状で『我が故地登米(とめ)郡、桃生(ものう)郡、いずこも見る影なく荒廃し、民百姓は困窮に喘(あえ)ぎ候。見るに忍びなく、何としても伊達様のお力を借りて建て直したく候、云々』とあったな。

肥後殿も重々承知であろうが、先年の葛西大崎旧領の一揆、民百姓を軽んじ、悪政を恣(ほしいまま)にした木村吉清(よしきよ)の追放は成ったが、肥後殿の申すとおり、田畑(でんぱた)は見る影もなく荒れ果ててしもうた。