平成十八年のあわら温泉旅館組合の新年会、百人ほどの関係者が集まって賀詞を交換していたが、これはその中で囁かれた言葉だった。

沖村高志(たかし)は、実家の旅館経営に携わるようになってから、旅館組合の中でこうした声を幾度となく聞いてきた。それを聞く度に、あわら温泉の将来にやや陰鬱な気持ちを抱えていた。

しかしこの日、その重苦しい心が一瞬で吹き飛ぶ出来事があった。ある若い来賓が挨拶の中でこう言い放ったのだ。

「黒沢明の『七人の侍』で、野武士を迎え撃つ百姓たちに向かって主人公の侍が叫ぶ。『いいか。戦とはそういうものだ。人を守ってこそ、自分も守れる。己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ』。

今、あわら温泉はまさに同じ状況にあります。自分の旅館だけ助かればいいと思ったら、皆潰れる。だから今こそ、どうすればあわら温泉全体を守れるか。その答えを出す時が来ています!」

高志はその誤解を恐れぬ大胆な挨拶に、出席者たちと同様に衝撃を受けながらも、春雷の轟きを聞いたような爽やかな感動に撃ち抜かれていた。

「その通りだ。個々の競争だけに明け暮れていたのでは、全体で盛り上げている他の温泉地には到底勝てない。一つになって新たな魅力を創り出していかなくては……」

高志と同様、この挨拶に感銘を受けた旅館経営者がいた。ホテル美松の前田健二だ。前田は高志の方に近寄ってきて、「今の挨拶、どう思った?」と聞いてきた。

 

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