しかし、ここにも「太平洋戦争」が暗い影を落とすとともに、終戦直後の昭和二十三年には未曽有の大災害「福井地震」に見舞われ、死者三千七百六十九名、全半壊家屋四万八千戸、芦原町だけでも死者九十九名、全半壊家屋千三百七十七戸と大きな痛手を負った。

そして、新たな都市計画の下に碁盤の目状に区画された温泉街が再整備され、地震から漸く復興した昭和三十一年四月二十三日、今度は「あわら大火」が発生して、旅館十六軒、民家三百九戸が全焼し、全町がほぼ灰塵と化した。

「日本名湯百選」にも選ばれた北陸屈指のあわらの名湯は、このような地震や大火から三度立ち上がり、不死鳥のように蘇った。平成十六年には企業が多く立地し、JR駅も擁するお隣の金津町と合併。

さらなる発展によってホテルや旅館が豪華な建物や設備、庭園や料理で競い合い、前にも増してその競争は激しくなっていた。

その切磋琢磨が温泉街の発展につながっているようにも見えるが、一方で他の温泉地と比べて全体的な一体感に乏しい状況に危機感を抱く若手経営者も少なからず存在していた。

「あわら温泉も競争が激しくなって、何しても足並みが揃わず、皆バラバラやー」

「あわらは元々、旅館ごとに泉源を持っているさけ、共存共栄の意識が薄いなー」

「他の温泉地はまとまって頑張ってるのに、これではあかんなー」