閑話休題  住居について

いきなりで申し訳ないが、わたしは学生時代に「古代人」と呼ばれるほど脳ミソの古い人間で、学生の頃はしょっちゅう昭和の歌謡曲を聞いていた。その時、衝撃を覚えた歌詞が一つ……

「窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 貴方は私の指先見つめ 悲しいかいって聞いたのよ」

言うまでもなく、あの『神田川』の一節だが――注目していただきたいのはここ、「三畳一間」! 

三畳一間で同棲! こんなミクロのスペースで、一体どんな暮らしをしていたのだろうか。あまりの衝撃で、即、古本屋に行って昭和生活史の本を購入したことを、わたしは今でも鮮明に覚えている。

さて本題。今、例に挙げたのは昭和時代だが、曽我兄弟が御存命の鎌倉時代にも、ビックリ住宅事情は多々存在する。

皆さん、ドラマとかで昔の貴族とか将軍とかの、「超エライ人」の御殿はご覧になったことがあるだろうが――地方の武士たちのおうちは、あまりご覧になったことはないだろう。ここでは一例として、曽我兄弟の義父、曽我太郎殿のお館を紹介しよう。

あんまり裕福じゃないし、曽我中村の地主程度に過ぎない曽我殿。どうせ大したお館には住んでないだろうとお思いだろうが……いやいやとんでもない! 神奈川県の風土記によれば、その広さ三〇〇米四方なり! と言ってもピンとこないだろうが、要するに戦国大名のお城レベルに広い! 学校がいくつ入るかと考えてしまう広大さ。

これは別に、曽我殿だけに限った話ではない。どの地方武士も、それなりに広いお屋敷を構えていた。

というのも、武士たちのお仕事柄、急な戦いに備えなければならなかったからだ。いざ戦い! となったら、この屋敷の中に味方を集めて、籠らなければならない場合もありうる。そのためには、それなりの広さが求められるのだ。

そのため、曽我殿の屋敷のぐるり外側には高さ八尺~九尺(約二メートル四十~七十センチ)の土手を築き、外敵を防いでいた。内部も厳重に二重構造。内側(ご主人が住むお屋敷はここにある)にもぐるっと垣根がめぐらされていて、物見櫓やぐらが設置されていたそうだ。

何と、この櫓は明治時代まで現存していたというから実に驚き。地元の古老のお話によれば「明治の二十年代までは、まだ物見櫓は残ってたんだけどね。村のエライ人が自分の家を新築にする時、村人をかき集めて、櫓の石を全部運んで、自分の家の石垣にしちゃったんだよね」

とのこと……。ううむ、史跡を保存しようという意識が薄い時代ならではの話。実に惜しいことだ。

さて、屋敷の内部はどのような作りになっていたかというと――曽我殿の屋敷内部の様子は、残念ながらほぼ史料が残っていないのだが、おそらくほかの地方武士の館と大差なかったと思われる。

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