紗津季は、「あのう、とっても申し上げにくいのですが、何か一つ、父が身に着けていたものをいただけないでしょうか。できればいつも身に着けていたもの、例えば、財布とか腕時計とか」と言った。

留美子はほっとするとともに、自分は思い出だけで十分と思って、何も言わなかった。

長嶋は、何と心やさしい母子なのか、栄蔵氏が心を遺していた理由が分かる気がした。そして、「分かりました。何とかしましょう」と約束した。それは後日、どちらか一つではなく二つとも、紗津季の下に届けられた。

留美子は、「あのう、最後に一つうかがいたいのですが……」と言い、長嶋にどうぞと促されて、少し、言い淀んだ後、「故人にお線香をあげたいのですが……」とか細い声で、告げた。そんなことできるはずがないでしょう、と怒られるのではないかとびくびくしながらも、是非とも聞きたいことではあった。

長嶋は、「今はまだ、お墓には入っていないので、お骨は自宅にあると思います。四十九日が終わって、納骨になりましたらお知らせいたしますので、お墓の方に行かれたらよろしいかと思います」とそう言って、お墓の場所を教えてくれた。

長嶋に丁重にお礼を伝えて法律事務所を出ると、留美子も紗津季もいろいろなことが頭を巡り、何も考えられなくなっていた。そして、二人はずっと押し黙ったまま、地下鉄に乗り、いつも他愛のない話をし続けていた電車内でも無言のまま最寄り駅に着き、人の流れにようやく従って歩いた。

そして、気がつくと家に着いていた。さすがに、この日ばかりは留美子も店を開けることができず、店の前に、臨時休業の張り紙をして出掛けていた。

二人は、ダイニングテーブルをはさんで向かい合わせの椅子に腰掛けて、まずお茶を入れた。そして、栄蔵の写真を机の上に置き、手を合わせた。その写真の前に、長嶋から受け取った遺言書の写しと、遺言によって紗津季が相続することになるという会社案内が置かれていた。

 

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