夏生は炒飯を作れるようになることで、自分が店の一部分になっていくことを求めた。それは、一人で店に入ることへの不安を小さくしていくことにつながっていた。

ところで天国飯店では炒飯をチャーハンと呼ばない。客が見るメニューには炒飯(チャーハン)と書かれているが、店の者同士では「焼き飯」と呼んでいた。

「何作るんや」

「焼き飯を」

「自分が来る前に、ちょうど卵飯 (たまごめし)を作っておいたとこや」

卵飯とは、炒飯の下ごしらえとして溶き卵と白米を炒めた飯である。おっちゃんが厨房左側のコンロ前に立つと、おっちゃんのちょうど左側に具材置き場がある。卵飯はその一番手前に、四角いビニル製の深ザルに入って置かれている。

夏生は、ガス栓を全開にしてコンロを強火にした。中華鍋から熱気が伝わって来たところで、鍋の肌を一周するように玉杓子を動かして液化したラードを鍋に這わせる。夕飯に炒飯を選んだ理由はもう一つあった。炒飯を調理する時の鍋振りに一目で憧れたことだ。まず、あのリズミカルで豪快な鍋振りをできるようになりたい。

夏生は炒飯の注文が入ると、おっちゃんの鍋振りに見入った。無骨なガス台と中華鍋がゴルゴルと擦れ、チャチャ、チャチャと熱い音を立てながら鍋の肌を滑る飯が空中に舞い上がり、また鍋の中に落下する。この動作を十回もすれば炒飯が出来上がる。

夏生は中華鍋の中央に集まったラードにぷつぷつと気泡が現れるのを見てから、賽(さい)の目切りの焼豚を一つまみ投入し適当に動かした。そこに玉杓子半分ほどの溶き卵に細切りの人参と干からびた輪切りの青ネギを一つまみ入れて焼豚の上に垂らした。ジャワーッと音を立てて、溶き卵に半球上の気泡が次々と現れる。ここに玉杓子一杯分ほどの卵飯を叩き入れ、いよいよ鍋振りが始まる。

おっちゃんのように前後に何回も連続して鍋を振ることはできない。夏生は鍋を手前から奥の方に押し上げるように動かして、鍋の中の卵飯が空中でひっくり返える動きを繰り返した。調味料を入れ、醤油を鍋の肌に垂らしてもう数回鍋を動かすと、卵飯は炒飯になった。ガスを止め、八角の中華皿に移そうとした時、おっちゃんが夏生の炒飯を一つまみ口に入れた。

「ちょっと塩が多いな。過ぎたるは及ばざるが如しや」おっちゃんは一言言うと微笑んだ。

夕飯が終わるといよいよ仕事が始まる。

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