この場合にいくつかの光のうちの1つを傍観者の光速度cに合わせると、別の光については時間の進み方が遅い、つまり移動者の視点のままでも光が現実として遅い、と言うしかない。すなわち時間の要素を絡めているくせに光速度は不変であるなどということはあり得ないのだ。

ここでとても不思議なことに気づく。光速度不変の原理を相対論は維持できない。なおかつ、いろいろな思考実験においても、移動者の光の見方を、なぜか静止する側のcに合わせようとする。ところが、ニュートン的な考え方では、期せずして光速度不変が確保されているのだ。

すなわちcは常にcのままに運用されている。これこそ、光速度不変の原理と称するにふさわしい。人はよく、ニュートン的な視点は神の視点である、と言うが、単に線路わきに立つ人だったり、ロケットの発射を地上で見送る人の視点だったりする。神の視点などというものはない。

要するに、ニュートン式の考え方とは、光速度を不変に論ずるためのポイントがどこかにあるはずだから、まずそこを探し、その視点で語ろうという、極めて現実的な態度のことではないだろうか。

どこでも構わないのだ、任意の1点で光速度不変が実行できるのだから、という相対論の立場こそが、まさに神の視点を想定しているものだと、私は考える。実際のところ、列車の思考実験が提起する問題というのは、地面に立つ人の視点ですべてを語れば謎はきれいになくなり、考案者の埒もない小細工も理解できるのだ。

エレベータの思考実験にしても、エレベータを引っ張り上げる(?)場面を外の空間から眺める人や、自由落下する箱を地上から見る人の視点で語ることで、中で起きていることの意味を正確に知ることができるのであって、内部の視点はそれらを明らかにできない。

アインシュタインは、実際には外から眺めた視点で語りながら、それを内部で完結し得ると間違って結論した。

 

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