そのあとヨンケルは、木屋町通二条を下がった樵木(こりき)町十九番地の旅宿を仮の公舎として、ひとまず落ち着いた。幕末から維新にかけて、佐久間象山(しょうざん)や大村益次郎(ますじろう)が遭難した場所から程近く、また偶然、それは万条の屋敷のすぐそばにあった。

ヨンケルの招聘に際しては、武器商人のカール・レーマンが経営するレーマン・ハルトマン商会が、日本側の仲介にあたったという。しかも、その弟のルドルフ・レーマンが、万条の通っていたドイツ語学校の教師だった。

樵木町の仮公舎は医師宿舎と診療所を兼ねており、ヨンケルがすぐ仕事に取りかかれるよう、改装が終わっていた。外来診察室と処置室、それに待合室がすでに出来上がっていたのだ。

他にも、ヨンケルを補佐するため、市中医たちが毎日交代で昼間の当直と夜間の宿直をすることが決まっていた。明石博高の師匠でもある新宮凉閣や凉民らがその任にあたり、こうして西洋人医師による、西洋式病院と医学校の開校計画が、京都でも実際に動き始めた。

とはいえ、何もかも手探りの状態だった。仮設の診療所に入院設備はなく、看護人も揃っていない状態だったからだ。

将来的には、どこかに正式な療病院を建設する計画が立てられていたものの、粟田口青蓮院(しょうれんいん)で開業予定の仮療病院は、まだ準備が整っていなかったのだ。