序章 旅立ち
飲み水は近くの川から竹を割って作った掛樋(樋)をかけて取ってくるようにした。だが鞍馬山の冬の寒さは西行の予想以上で、ある朝起きてみたら掛樋の水が凍ってしまった。飲み水も飯を炊く水も無くて、若き西行は途方に暮れた。
「わりなしや 氷る懸樋の 水ゆゑ(へ)に 思ひ捨ててし 春の待たるゝ」
(どうにもならないよ。氷ってしまう懸樋の水のせいで、出家して思い捨ててきたこの世の春がこんなに待ち遠しくなるなんて)と、がらがらと山が揺らぐような高笑いが聞こえた。
「誰だっ」
西行は思わず身構えて辺りをうかがった。背後の庵に、かすかな気配を感じた。
西行は咄嗟に積んである薪(たきぎ)の陰に隠れ、戸口から出てくる影に、思い切り薪を放った。戸口から頭上の大樹の枝に飛び移ろうとしていた影の足に薪(たきぎ)は当たり、影は地に落ちた。
どすん、と音立てて地面に落ちた影が、破鐘 (われがね)のような大声で喚いた。
「何者じゃ、お主」
黒っぽい僧衣らしきぼろ布に身を包み、背に米袋を結び付けている。
「お主こそ、何者だ」
西行は、呆れて言い返した。盗人(ぬすっと)のくせに、いい度胸だ。盗人は起き上がると、悪びれもせずに言った。
「いい腕だな、お主。坊主のくせに、このわしに当てるなんて」盗人は西行の投げた薪を拾い上げて、しきりに感心している。
「今度山に上った新参の坊主が、崖際 (がけぎわ)で修行もせずにめそめそ泣いているかと思って来てみたら、お主、強いじゃないか」
見られていたのだ……西行は顔がかっと火照り、怒鳴りつけた。
「米盗人が、何を言うか、返せ」
すると盗人は、米袋を抱えて首を傾げた。
「お主、なあ、掛樋は真冬には凍るものだよ。だから水がめに水を絶やしたらいかん。それから、ついて来い。この米は半分返すから、わしが、冬でも凍らない湧き水を教えてやるよ」
「おい、全部返せ」
と西行が言うのも聞かず、盗人は傍らの平らな石にざあっと米粒を半分こぼすと、飛ぶように駆けだした。
西行はとっさに米粒を薦で覆うと、急いで盗人を追った。