庭の途中で黒い車がずうっと下手のカーブを曲がって行くのが一瞬目に入った。それが先程の車なのか不明だったが、別荘地のエリアで車の往来はごく僅かだった。それに岬の町に入る道が見えるのもその一角だけだった。
階段の降り口で下方に目を凝らしたが、道路の周辺に人の姿はなかった。午後の光にタブノキがうすい影をひいていた。その位置から家の門口は、フェイジョアの繁みに隠れて全く見えない。どこからかイソヒヨドリの声がしている。
くの字に折れる階段の中途で典子はふっと足を止めた。そこからは植栽が切れて下まで見通せる。門壁の陰に人のいるのがわかった。それが女性であることも。むこうを向いた肩口から上が覗き、襟首を見せて髪を後ろにまとめている。髪は黒ではなかった。光のせいか薄い栗色がかっている。
深く息を吸うと典子は、一歩一歩足を下ろして行った。全身が目に入っていった。明るいグレーのパンツスーツ、隙のない、というのだろうか、肩先から足元まできりっとした立ち姿は、容易に近づくのを拒むかのようにも映った。
女は全く気づかないのか、背を向けた姿のまま微動も見せなかった。その姿はとても若々しく見えた。それは、ごく稀に回ってくる保険の外交員のようだった。膨らんでいたものが一気に萎んでいくのを感じた。
落胆にとらわれながらも、典子はそろりと足を下ろしていった。数段降りた。切れていた視野が横側にも広がっていった。
ふと、女の右前に置かれている物が目を捉えた。臙脂がかった黒のスーツケース、その上には焦げ茶色のボストンバックが。
息をのんだ。それは明らかにセールスなどではなく旅行者の装いに違いなかった。
―マリ……なの?―
深く詰めた息が言葉になって喉元から出ようとした時、スーツの背がゆっくりと回った。顔と顔、目と目があった。
「マリ!」
典子から溢れ出ようとした喜びはしかし、一瞬もなく消えていった。
どれほどの時が経過したのか時が凍り付いたように感じた。相手の顔には、その瞬時に典子の中に沸き上がったような歓喜も、それどころか微かな表情の変化すら現れなかった。
下方から捻り向けた眼はまるで見も知らぬ者を精査するような、冷ややかな光を沈めていた。