父・義隆は四人姉妹弟の長男として生まれ、祖母に似て穏やかで愛情深い人でした。一方、母・キクエは六人兄姉妹の末っ子で、頭はよかったもののわがままで気性の激しい人でした。

母の話だと、名前は漢字の“喜久栄”だったのに、小学校のとき、画数が多くて嫌だと駄々をこね、“キクエ”に直してもらったのだそうです。嘘みたいな話ですが昔はそんなことができたようです。

私はそんな両親の三女として、昭和二十六年一月十五日に生まれました。母が小正月で実家に里帰りしているとき、急に産気づいたのだそうです(一月十五日は“小正月” といって、嫁に行った娘が、実家に里帰りする習わしがありました)。

「今度こそ男の子と楽しみにしていたのに、また女の子でみんながっかりしたもんだ」と、母がよく言ったものです。

私が二歳のとき集落に大火があり、家が焼けてしまいました。あいにく父は修学旅行の引率で佐渡に出かけていて、母が勤め先の学校の対応に追われていると、

「家に火がついた!」

という知らせが入り、母が自宅に戻ったときにはすでに手の施しようがなかったそうです。

それでも母は二階に駆け上がり、父の燕尾服(モーニング)と買ったばかりのラジオを持ち出したのですが、「あとはみんな焼けてしまった。お母さんの大事な琴も嫁入り道具も何もかも……」と当時を振り返るたびに嘆いていました。

幸い私たちは近所の人に連れられ避難していたのですが、母は私たちの居場所が分からないまま海辺近くの実家まで歩いて戻り、眠れない夜を過ごしたそうです。

父の家は祖父が料亭だった建物を買い求めたもので、家の両端に階段があるほど大きな家だったようです。長男に待望のお嫁さんが決まって嬉しかった祖父は、退職金をはたいて立派な家を購入したのかも知れません。

子供の火遊びから始まったボヤは厩(うまや)の藁に燃え移り、馬がびっくりして飛び跳ねたために、火のついた藁が舞い上がって強風に煽られ、あちこちに飛び火して大火事になってしまったのだそうです。

焼け出された私たちは知り合いのお寺さんの二階にお世話になり、あるとき私は何かのはずみで二階の窓から庭に転げ落ち、太ももの骨を折ってしまいました。名立から車で一時間ほど離れた上越市の病院に運ばれ手術を受け三か月入院。太ももに針金を通され、足をロープで吊られたまま一体私は何を考えていたのか……。

残念ながらそのときのことは何一つ覚えていません。そして退院までの間、仕事の合間を縫って病院に通い続けた父と母もさぞかし大変だっただろうと思います。