鎌倉幕府成立後、名実ともに政権が確立するのは、一二二一年の承久 (じょうきゅう)の乱後とみられる。

この頃の薩南諸島(トカラ列島)は、南宋からの火薬の原料としての硫黄の需要の高まりで高景気に沸いていた。トカラの名称は琉球商人たちによって名付けられたようである。

この頃、南九州から南西諸島にかけての島々は、日宋間の朝貢貿易によって大いに賑わっていた。貿易によって流入した宋銭は国内の貨幣経済を発展させている。

十一世紀末には大宰府に設置されていた鴻臚館 (こうろかん)(外国人接待施設)が廃止され、十二世紀中頃には太宰府を通じた管理貿易(朝貢貿易)の面倒な手続きも不要となって、日本籍の大型商船も登場し、その航法能力も大きく向上する。

一二二三年には、飯田備前(いいだびぜん)が執権北条義時 (よしとき)に命じられて、日本初の船法度 (ふなはっと)(海事法:今日の海洋法)を制定している。

文永元(一二六四)年鎌倉幕府は、太宰府に対してそれまで行われていた「御分唐船 (ごぶんとうせん)」の廃止を指示して、以後「建長寺 (けんちょうじ)船」として、鎌倉大仏の造営費が日宋貿易で賄われるほど貿易が盛んになる。

太宰府は元来、京都朝廷の権限を執行する機関であったが、次第に鎌倉幕府によって無役に追い込まれていく。貿易船に関税を掛けるようになったのも、鎌倉時代になってからとされる。

北条政権は頼朝から政権を奪ったとして低い評価を受けているようだが、海外交易や貨幣経済への端緒及び国内統治に関する国家としての形成に大きく貢献している。

鎌倉幕府滅亡後、薩南諸島から奄美にかけての島嶼は、再び島津氏の所領となる。しかし十五世紀に入るとその範囲がトカラ列島(薩南諸島)までに後退している。

これは、鎌倉幕府と朝廷派の薩摩藩の間に争いがあって、管轄権が一時あいまいになっていたためとみられる。

その間隙をついて琉球が進出し、奄美大島が琉球の冊封支配下に入ったようである(李氏朝鮮の宰相申叔舟 (しんしゅくしゅう)の記述になる「海東諸国記 (かいとうしょこくき)」の「琉球国之図」による)。

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※本記事は、2023年2月刊行の書籍『忘るべからざることども』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。