【前回の記事を読む】通貨を支配するものが世界を制す。宗銭が基軸通貨にならなかった理由

第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷

宋の時代

宋末期には、文治政策の行き過ぎの反省から宋学(儒学に基づく朱子学)が発展する。司馬光は西郷隆盛の愛読書「資治通鑑(しじつがん)」を完成させて、行き過ぎた文治主義を修正する。大夫士したいふ(軍人や保守的官僚)の既得権復活に力を入れて国政の立て直しを図るけれども未完に終わる。

このように、朝貢制度による冊法体制の形成は、図らずも中国の経済圏に諸国を組み入れることにもなったが、中国貨幣(五銖銭ごしゅせんや唐銭・宋銭)が中華圏の領域を超えて基軸通貨となるまでには至っていない。

これが朝貢制度の弱点ともいえよう。もともと四書五経の思想や教えは、人の生き方に主眼をおく道徳や礼節的なものであって、西洋的なマクロ経済の考え方は希薄であった。

しかし儒教批判やプロレタリア文化革命、国民の大量粛清などを経て生まれた今日の中華人民共和国は、「徳・礼節」ではなく漢時代の法治主義(人間の本姓は悪であり法でもって縛らなければ制御できない)を標ぼうしている。

また一党独裁と軍事力を背景として、豊富な財源と情報通信技術力などをもって「新朝貢ドクトリン」を掲げて世界制覇に挑んでいるともいえる。

さらに、文治主義の行き過ぎで崩壊した唐や宋王朝の没落を、反面教師として修正してきているようである。

しかし科挙制度によって登用された士大夫による集団指導体制ではなく、個人崇拝と軍事が一体化した国家体制は、第二次大戦時のナチス・ヒトラーやファッショ・ムッソリーニに見られるように帝国主義へと発展しやすい。

日中関係としては、宋使が平清盛に贈り物を届けてきて、清盛が宋に返牒(返書)し、交易が活発化する。一〇一九年、大宰府管内の九州北西部に「刀伊とい入寇にゅうこう」(ツングース系女真族による大規模な襲来)事件が起こる。