本事件について藤原実資(ふじわらのさねすけ)の書いた日記『小右記(しょうゆうき)』を参考にすれば、「賊船五十隻、長さ約二十メートル、櫂(かい)三~四十付け、一船に五~六十人乗船、陸上では刀を持つ者二~三十人が前衛となり、これに弓矢と楯を持つ者七~八十人が後衛として構成された集団が十~二十隊で編制され長期にわたってあちらこちらで略奪や暴行を働いた」と記されている。

陸上戦闘員だけでも最大二千二百人ほどとなっていて、部隊編成も整然としていることから、かなり戦闘に慣れた種族であったことがうかがえる。

日宋間の朝貢関係

八九四年に遣唐使が廃止され、続く九〇一~九二三年「鎖国的」政策が制度化された(古代における渡海禁止制の再検討:山内晋次:大阪大学ノレッジアーカイブ・オオサカ)以後は、主として「宋」の官人や商人達による日本への一方的な交易となっていく。

『森克己著作選集』(国書刊行会・一九七五年)によれば、一一七二(承安二)年八月、幸宗より後白河法皇と平清盛に対して国書と国信物を贈ってきたのは、怪しむにたらない(九条兼実日記『玉葉』承安二年九月十七日条)。以降、宋と正式の貿易が始まる。

『吾妻鏡(あづまかがみ)』や『鹿児島大学教育学部研究紀要・人文・社会科学編』などによれば、平家の時代に薩摩国の住人阿多忠景(あたただかげ)が勘勅ちょくかん(おとがめ)を受けて逐電し、その後河辺通綱(かわべみちつな)が南島(南西諸島)方面に渡海したことが記されている。この頃、薩摩の島津氏は奄美・沖縄を「海外」または「異国」として理解していたようである。

鎌倉幕府が朝廷から「関東御分国(かんとうごぶんこく)」として領地を与えられ、その後、全国に守護・地頭が設置されて鎌倉幕府の礎ができる。

頼朝の死後、「北条得宗家 (ほうじょうとくそうけ)」の専制となった幕府は、国内の荘園には未だ律令体制下で制定された国衙領(国領)制度が根強く残っていたので、未整備であった海上交易権に着目し、日宋貿易に力を入れるようになる。