二、牛李の党争
李徳裕は姑を一瞥しただけ、興味を示す素振りもなく、背を向けて冠を外して、横に控える家臣に渡した。
「其方の慰み者にするもよし、剣の錆にするもよし」意に留めることもなく、地図に目を戻した。
「閣下のお側に置かなくともよろしいのですか。柔美な姑ですが」予想もしない答えに、張軌は落胆を覚え李徳裕の顔を見返した。
「今は戦の最中、姑は必要ない」
「この姑では、お気に召しませんか」
「連れ帰って、其方の好きにするがよい」
「お言葉は、ありがたいのですが、宦官の身、楽しむ術を持ちません」李徳裕は顔を上げて鬚のない張軌を見た。
「そうであった……だが、楽しみの術は他にもあるだろう」
陣幕の隅に控えていた従者に近づき用意されていた熱い茶に李徳裕が、一摘(ひとつま)みの塩を入れながら、苦笑いを忍ばせ張軌に目を当てた。
その時、膝まずき首を垂れる姑から、漏れ出る不可解な気に視線が動き、目を留めると打ち沈み悲しく萎れる肢体から、悲壮感と共に妖艶で蠱惑的な匂いが漂い出るのを感じ、引き込まれるように背筋が伸びている。
しばらくの間を置いて声が出た。
「もうよい、連れて帰れ」
戦場の緊張した空気の中、これからの成徳統治の方策を考え、民心をまとめる手立てを思い描くことで、直ぐに姑の存在は希釈されてしまった。
「お取り込みのところ、お邪魔し申し訳ありませんでした」
腰を折り深々と頭を下げた張軌が、姑を引き立てて陣幕を潜って行った。だが、張軌は李徳裕の僅かな心の隙を見逃してはいない。
一か月余り後、李徳裕の率いる禁軍は、長安へ凱旋を飾ることができた。その結果、李逢吉は宰相職を追われて地方へ左遷され、李宗閔も科挙の採点に不正を行った事実を暴かれ都を追われることになる。