初めてということもあり、晴美は左側に硯を置いた。晴美は、〈なるほど〉と先生の言葉を心の中で反芻しながら左手で墨を磨り始めた。芳野先生はそれを見ていた。

「井意尾くんは左利きなんですね。いいですよ、左利きのままで……。今更、右利きに直すと随分と苦痛を味わいますからね」

晴美は安堵した。そして、ゆっくりと、しかし力を込めて磨るのを続けた……。あまりにものんびりと磨り過ぎたためか、十五分もかかった。左手をそうっと止めた。芳野先生は晴美の横に座りにきた。

「まず、楷書のひらがな五十音から始めましょう。はい、『あ』はこのように書きます。さあ、やってごらんなさい」

芳野先生はまるで小学生にでも言うように丁寧に「あ」の手本を朱で書いて見せた。晴美は芳野先生の小筆で書く「あ」という文字の始筆、運筆、終筆を徹頭徹尾見ていた。小筆を立てて筆を適当に半紙に下ろしながら「あ」と晴美は書いた。芳野先生はじっと晴美の書く「あ」を見ていた。

「形を整えて――。全体的に調和がないと文字になりません。あなたの『あ』には調和が欠けています。もう一度書いてごらんなさい。そうですね。二十回練習して下さい」

晴美の何気なく書く「あ」は明らかに乱れていた。ああ、難しい。たった「あ」という文字なのに……。

十分ほども続けていると晴美の集中力は失くなってしまった。懸命に書いたからであろう。小筆が自然と止まり、これ以上書けなくなってしまった。脂汗が額に滲み、ポタリポタリと半紙に落ちた。

「はい、ここまで。今日はこれでいいです。よく一生懸命に書きましたね。誰でも最初は晴美くんと同じですよ。最初から良い字が書けるはずがありません。嫌にならず、続けることが大事です。『継続は力なり』とよく言われるでしょう。頑張って」

芳野先生はにっこりとして晴美に言った。晴美は嬉しかった。懸命に取り組んだことを褒めてくれたからだ。この嬉しいという感情をしっかりと心に仕舞い込んで忘れないようにしよう、と思った。

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