結局、後鳥羽院は、41歳から18年間隠岐の地にあり59歳でその生涯を終えることになります。また順徳院はその3年後、45歳でやはり配流先の佐渡でその生涯を終えます。
藤原定家が百人一首を撰歌したとみられる1235年は、後鳥羽院も順徳院も既に14年もの長きにわたって配流の地で過ごしていたことになります。定家もこの時は最晩年の73歳です。そして、後鳥羽院が亡くなって2年後、79歳で定家はその生涯を閉じることになります。
第1部は、1〜3章全体で、定家による、後鳥羽院、順徳院への秘められた追慕、鎮魂歌という性格を持っているのです。後鳥羽院による新古今和歌集の編纂に召集されたことで歌壇での地位を高めた定家にとっては、両院に対する追慕の気持ちはさぞかし抑え切れなかったことと想像されます。
しかし、それなら何故「秘められ」なければならなかったのでしょうか。実は、最初の撰歌では後鳥羽院、順徳院の歌は入ってさえいなかったといわれています。そこには、鎌倉幕府に対する配慮が働いていたと考えられるのです。
また、撰歌の依頼主が隠いん棲せいの身とはいえ、そして息子の嫁の実家の父親とはいえ、鎌倉幕府につながりのある相手(入道蓮生(れんじょう):俗名宇都宮頼綱)であるのでこれは妥当な配慮と考えられます。
しかも依頼主宇都宮頼綱には、まきの牧方かたの事件で、鎌倉幕府から謀反の嫌疑を受けて出家した経緯があります。決して、鎌倉幕府に疑われるようなことがあってはならなかったのです。
第2部の概観
第2部は、第4章、第5章(各20首)で構成されます。
第2部は、前半の第4章では、恋の始まりから恋の行く末までの様々な心の動きを歌います。そして後半の第5章では、定家自身の歌も含めて、しのぶ恋、かなわぬ恋を様々につづりつつ、定家が秘かに慕っていたと伝えられる式子内親王の歌で結ばれます。
章ごとの特徴を眺めてみましょう。
第4章 恋の始まりとその行く末
恋の諸相が、川、海、山など、様々な情景、風物に合わせて歌われます。続いて、朝ぼらけの中での後きぬぎぬ朝の姿や、待てども来ない恋人を想う姿、涙で袖が濡れそぼる姿などが印象的に歌われます。そのようにして、恋の始まりから恋の行く末までの様々な心の動きが歌われています。