芭蕉は、禅でいう、「本来無一物」の定理を会得した。人は貴人であれ貧人であれ、無一物で生まれる。息が止まる死の瞬間に、目に見えない魂だけが昇天し、残される骸は、黄金で飾られていようとも、ただの物となる。朽ちてしまう。
しかし、生きていた間におこなってきた事は、消えない。形を変えてでも後世に伝わる。色即是空・空即是色である。人間本来無一物ではあるけれども、本来無尽蔵でもある。
芭蕉四十一歳 佛頂四十三歳、訴訟を終えた佛頂は、後進の頑極和尚に根本寺住職をゆずり修行僧にもどる。芭蕉は一切放下の心境を得て、その境地で俳諧のみちを究める決心をする。
〝野ざらし紀行〟を手始めに、旅から旅へと、蕉風俳諧への道筋を辿ることになる。侍への道も、僧への道も捨て、蕉風俳諧一筋の道を。
後年、猿蓑集巻之六 幻住庵記 に、「かくいえばとて、ひたぶるに閑雅を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず…やや病身人に倦て、世をいとひし人に似たり…ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさえなれば終に無能無才にして此一筋につながる…」とあるように。
芭蕉が提唱する〝わび・さび〟は、日本古典芸能に共通する基本的価値観である。日常の中にあって、日常を超える精神性、言葉や所作そのものではなく、それらを媒体とした、幽玄の世界、媒体が醸し出す、より味わい深い世界の表現の創造である。
言いかえれば、日常のささやかな幸福感のようなもの、日常生活のなかにある平凡であるが至福の世界、演出する人と見る人が、喜びを共有できる世界、感心されるのを期待するのではなく感動を共有する世界。
芭蕉は、日本および中国の古典文芸を学ぶうちに、あらゆる文芸に共通する価値観〝わび・さび〟に心を惹かれていた。華道・茶道・絵画・和歌・書道・能、すべてに共通する基本的価値観(価値を決める基準)である。