第二 雑歌の章その二
誰そ彼
父親は仕事場で倒れ、急ぎ病院に運ばれて治療を受けたが手遅れだった。
それは今までに一度も聞いたことのないQT延長症候群という心臓の病気だと聞いた。
自分の部屋に戻ると優凪はその父親のことを思い起こしていた。十歳になった時に彼は、『大人になるための準備ノート』を作り、父親が教えてくれたことをその都度忘れないように書き貯めていた。そのノートを開き、捲りながら父親に言われた時のことを思い浮かべてみる。
その父親の教えが自分を構成する大きな柱となっていることは間違いない。
父親は母親と同じ大学の農学部出身で卒業後は百三十七万種を超える動物のほぼ七割を占める昆虫の生態について研究していたが、自分の研究の基本が植物にあると気づき、植物学の研究室を訪ねそこで母親に出逢うことになった。
父親は母親を初めて見て石のように固まって動けなくなったと言い、母親の放った恋矢にやられたとも言った。その恋矢とは何かと聞くと、交尾の時に密着したカタツムリが生殖口から石灰質の鋭い矢(恋矢)を出し相手のカタツムリの体に突き刺して動けないようにする……この行為をダート・シューティングといい、それにやられたと話した。
「運命の人に会うとみんなそうなる。でもそれは人生に一度あるかないかの幸運なチャンスだから、それをじっと待つんだぞ」と父親に言われた。
確かに父親がダート・シューティングされた事実に間違いはないだろう。
子供の自分が見ても母親は素敵で魅力溢れた女性なのだから。自分が子供ではなく年齢が近ければ、おそらく父親と同じように恋矢を撃ち込まれて動けなくなったに違いない。
「地球という大地、水、空気そして太陽、これらが全て揃わないと昆虫を含む動物と植物の生き物は生活できない。その生き物のうち、どれが基本になるかわかるか」と父親は自分に尋ねた。
動物なのと答えると、「それはユウが人間ゆえの答えで、真実は植物だよ」と話を続けた。
「太古の地球には二酸化炭素しかなかっただろ。植物が酸素を作り出してくれたおかげで人間を含めた動物は生活できる環境になった。植物がいなければ動物の生活が成り立たないだろ。ゆえに生き物の基本は植物なんだよ。彼らのおかげで他の生物は生きていける。彼らに感謝しなければいけないんだぞ」と話す父親の言葉を集中して僕は聞いていた。