「武蔵様! どうしても行かれるのですか?」

「ああ、強い剣客がいると聞けば、是が非でもこの腕を試してみたいからな」

武蔵は、数年前に幼少期を過ごした村から追われるように兵法修行に旅立ち、ここ龍野の圓光寺の道場に草鞋(わらじ)を脱いでいまに至っていた。この道場で腕を上げた武蔵は、但馬(たじま)に大力の剣士がいると聞き、どうしてもその者と立ち合いたく、ここを発とうと決心していた。

「私がいかようにお頼みいたしましても、武蔵様のお考えは変わりませぬか?」

先ほどとは、いささか声の調子が異なった志乃の言葉に武蔵が振り向くと、そこには、両眼に涙を溢れんばかりに湛えた志乃の悲しげな眼差しがあった。これはまずいと思い、武蔵は慌ててこの場を取り繕おうとした。

「あ、いや、事を済ませば、すぐに戻る」

あたかも里帰りでもするかのように、平然とそんな言葉を吐き、その口元には笑みさえ湛えた武蔵の表情からは、志乃には武蔵の心は何の屈託も宿してはいないように見えた。

(武蔵様は、立ち合いに勝ってここに戻ってくることしか考えてはおられぬ。ましてや私がその身を案じて、夜も眠れぬことなぞ一顧だになされたりはされぬ)

志乃が自分の無力さを感じていたそのとき、あちこちを探し回ったのか、息遣いも荒い多田半三郎が河原に現れ、二人の会話に入ってきた。

「先生! 志乃殿も……、こちらにおわされたか」

多田半三郎は、ここ圓光寺の第五世住職・多田祐應(ゆうおう)の三男であり、後に第七世住職・祐甫(ゆうほ)となる人物である。志乃は半三郎の従妹(いとこ)にあたる。

圓光寺の歴代の住職は、摂津源氏の流れを汲む多田氏が務めているが、寺の住職といっても、戦においてはその門徒を率いて戦わねばならない武将でもあった。半三郎は武蔵より三歳年上だが、剣術においてはいまや武蔵の弟子となっている。これまた育ちの良さが窺えるきりりとした顔立ちで、人柄の清廉さを感じさせる若者であった。