龍野・ 圓光寺
一
半三郎は、数年に亘りここ圓光寺の道場で兵法修行に寝食をともにした武蔵が、志乃に対してどのような気持ちでいるのかはよく弁えていた。
また、その幼い頃より妹のようにかわいがってきた志乃は、いま二人から顔を背け、その涙を見られまいとしてか、少し離れていったが、思いつめると一途なだけに心配なところがある。
志乃のそんな様子を顧みることなく、武蔵は半三郎のただならぬ様子に鋭い目を向けた。
「さように慌てて、いったいいかがなされたのでござる?」
「はい、先生。忠右衛門が白装束を身に纏い、道場にて切腹すると息巻いております。
皆もやめさせようとはするのですが、あやつ、われらの申すことなどいっこうに聞く耳を持ちませぬ。先生にお願いするしかござりませぬ」
「うーむ。困ったやつだ。すぐに参る」
武蔵は、道場のほうに向かいながらも、川面のほうに顔を背けている志乃にちらりと一瞥を投げかけた。何か声を掛けようかと思ったが、言葉が見つからなかった。
志乃は、足早に去っていく二人の足音を聞きながら、自分はこの世にほとんど何の意味など持たぬ芥(あくた)のようなものにすぎないのではないかと、川面に浮かんで流れる落葉を見つめながら感じていた。
圓光寺の境内には、かなり広い道場があった。この時代、剣術道場はまだ屋外に設けられていることが多かった。砂が敷かれた道場の片隅には、白装束の落合忠右衛門が座している。
その前には短刀を載せた三方が据えられている。門弟や門徒衆はこれを遠巻きにして成り行きを見守っている。武蔵は、ゆっくりと忠右衛門に近づいていった。
「忠右衛門!」
「あっ、お師匠様! それがしも連れていってくだされ。もしそれが叶わぬなら、ここで腹を召す所存でござる」
「うむ……。そうか。あいわかった。半三郎殿、水柄杓 (みずびしゃく)を用意してくだされ」
武蔵と視線を交わした半三郎は、その意図がわかったものとみえ、すぐに桶に水を入れて持ってきた。武蔵は、腰に帯びた太刀を鞘から抜き、半三郎がそれを水で清めている。
首を回してその様子を窺っていた忠右衛門は、いささか慌て出している。
(まさか、お師匠様は本気ではあるまいな! いや、お師匠様の気質からすると、本気やもしれぬ……)
武蔵は、半三郎が清め終えた太刀の刃をおもむろに忠右衛門の首筋にあてがった。
「覚悟はよいな!」
忠右衛門は、首の後ろに太刀があてがわれたその瞬間、冷たい刃の感触にぞっと肌が泡立つのを感じた。そして、その身を震わし始めてしまっていた。
「もっ、申し訳ござりませぬ。この身の未熟さを思い知らされ申した。まだ死ぬる覚悟が……うっ」
忠右衛門は、地面の砂に額を押しつけて嗚咽を始めた。元服を済ませたとはいえ、まだその丸き顔には幼さを残した十五歳の少年なのである。