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現在15時45分、待ち合わせの時刻はとうに過ぎている。スマートフォンに連絡の報せは入っていない。史は二杯目のコーヒーを注文した。
〈どうしたのかしら、遅れることなんて一度もなかったのに〉小雨が降る街に目をやりながら、漠然とした不安が湧き上がってくるのを、史は抑えられないでいた。
雨には消し去ることのできないほろ苦い思い出がある。その気持ちにさせる出来事は、その後の史の恋愛観に少なからず影響を与えた。27歳の史。過去の記憶など忘れ去ればいいものを、しかし昨日のことのように思い出してしまう。
瞼を閉じると、遠い日の光景が浮かんできた。中学校の学舎だ。青春を確かに刻み続けたその特別な場所は、春には桜、初夏には新緑、秋には紅葉の美しさが際立ち、史が住む町からゆるやかな坂道を登り切ったところにある。
史は三年生になっていた。新任の教師が二名紹介され、新学期が始まった。季節が移ろい初夏の爽やかな風が吹きわたる放課後、新しく赴任した数学教師に呼び止められた。教師の名は谷口涼介。
「君はバレーボール部なんだね。バスケット部に変わる気はないか?」
突然のことでとまどう史。
「バスケも好きですけど……顧問の小出先生がなんておっしゃるか」
史は学業にもスポーツにも秀でており、ルックスも申し分ない。涼介は、史の返事を聞きながら、〈なんだろう、この気持ちは〉と少々とまどっていた。
「バスケの顧問になったんだけどね。スポーツ万能の君の評判を聞いて、是非来てもらいたいんだ。両方できるといいんだがなあ、それは無理だよなあ」
「両方は絶対無理です。私だけで決めることは難しいですけど」
「小出先生に相談してみるよ」
「そうなさってください」
史は、〈強引な先生だな、バスケ部を強くしたい気持ちはわかるような気がするけど、ちょっとなあ〉と感じながら、バレーボールの練習に加わった。部員は十三名。史はアタッカーで得点力が高く、ジャンプサーブも得意だ。