第二章 文学する&哲学するのは楽しい
学問的な話も時にはいいもの、少し付き合ってくれないか?
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・神への祈り・交信という、一方通行の祝詞への道・祝詞からの道の上に歌謡は発祥しない。神事的行為は、広く豊穣確保の生産活動の延長にあり、真剣・生真面目過ぎて遊びのないところには歌謡は生まれない。まして、シャーマンを経て政治性を帯びると、同質を求め、ことばは散文化・単色化し歌謡から離れてゆく。
・神事・まつりという集団感情の集団表現の儀式後における、遊興的宴に類するものの場においては、散文に節を付けて発声する集団土謡的なものがあっても不思議ではない。しかし、性や愛を欠く単なる集団的単一性・散文性から、歌謡は立ち上がらない。
・何音かで構成される2句(対象としての指定句と説明句)をメインとする日常生活の伝達手段としてのことばは、うた歌謡に昇華しない。ことばの豊饒化・洗練は、歌謡発生の必要条件であっても、十分条件ではない。
・交易を始めとする交流用語は、他者との取引における「関係用語」であり、交易上は量と質の判断を要するため3句を中心としており、さらに節や行にまで進化・発展する契機を孕んでいた。ただし、片歌の原型ともいえるこの3句は、歌謡用語の発祥とは別である。
・葬送は、死者を弔い埋葬する現実的行為そのものであり、死を悲しむ感情表現の場ではない。挽歌の発生は、死を悲しみながらも対象としてそれを見据える後代になってからの感性である。葬からうた歌謡への道はない。
・性が、生(なま)の交接・生殖行為そのものである限りにおいては、そこから歌謡を発生させることはない。性が歌謡・文学であるためには、性幻想と性虚構性を帯びる必要がある。古代遺跡の装身具はその証左と思われるが、それは同族内での装飾に終わったとは考えにくい。
同族を超えて他部族の異性に訴える動機もあったに違いない。広領域の交易・交流における「他地域の異性の存在」は、性想像領域を広げたはずである。ここにプレ歌垣的なものが登場する。
・集団統治のための、いわゆる政治のことば・統治用語からも、うた歌謡は生まれない。
・歌謡発生時に、自己表現・個人詠としての歌謡は確立していない。
・生殖・交接による狭く個別的な「愛語」が、歌謡として昇華する道筋は考えにくい。世界に広く分布する単なる「I LOVE YOU」系のことばだけからは、断じて歌謡の始源になり得ない。従って、記紀の編者の理解は正しくない。すてきなお前・すてきなあなた、にいくら節やリズムを付けても歌謡にはならない。では、この前提の先に見えてくる、うた歌謡の輪郭とはどんなものか?
・集落共同体構成員個々の生活ことばが空間に放たれても、歌謡になることはない。歌謡は、共同体で共通認識できることばでなければならない。
・その上で、歌謡として口の端にのぼるためには、一定の選択にかけられ、集落構成員が共感し口にすることばでなければならなかった。