人生の切り売り
一 契約
彼女の視線が動いた先へ振り返ると、見覚えのあるイケメンが立っていた。三ヶ月ほど前にキスを交わした、自称悪魔。
「お待たせ」
男はごく自然に私の隣に座り、スラリと長い足を組む。服装は以前と同じ黒づくめだが、それを地味とは思わせないオーラがあった。キョトンとしたままの藤島希枝に、彼は悪魔的な笑顔を向ける。
「読んであげてよ」
「……え?」
「彼女、頑張って書いてたからさ」
そうだよね。とばかりにこちらを一瞥したので、私はぶんぶん頷いた。それを見た藤島はようやく自分の職分を思い出したようだ。
「頑張ればいいってものではないんですよ。小説は売れるか売れないかで判断するんです」
「だから読んで判断してほしいってことじゃないの?」
「そうです!」
すかさず私も同調する。お忙しい編集者様は、プロットを突き返してばかりでなかなか本編を読んでくれないが―。
「ね?」
イケメンが一言頼むと、状況は一変した。彼女は今まで触れようともしなかった原稿を手に取り、何故か席を立つ。
「ちょっと目を通してくるから、ここで待ってて」
「え? はい!」
その後ろ姿を見届けると、私は勢い彼の手を握った。
「なんだかよく分からないけど、ありがとう」
「そういう契約だからね」
「へ?」
彼はその手で私の頬に触れた。親指が、ゆっくりと唇をなぞる。
「悪魔と取り引きしただろう?」
あのキスは確か、プロットにダメ出しされて飲んだくれていた時に―。
「人生を売る、とかなんとか」
「そう。だから売り込みに来てあげたわけ」
それは悪魔の力というより、イケメンが女性編集者をたらし込んだだけではないだろうか。
「納得のいかない顔してるけど、今回は僕も大変なんだからね」
「はい?」
「君のお願いが特殊すぎるんだよ」
そう言って彼は改めて説明を始める。