また、24節気、つまり1月節、1月中、2月節、2月中、3月節、3月中……の干支指数は1月中であるS(a)に1太陽年÷24を次々に加減して求められるが、月朔と月朔の間にN月中の含まれる月が暦月のN月とされ、中気を含まぬ月が閏月とされる。19年に7回の閏月が入ることになる。

内田正男編著『日本書紀暦日原典』の元嘉暦の欄に月朔の一覧表が示されている。

この計算から分かるように、元嘉暦は月が新月(朔)から満月となり再び新月となるまでの周期(朔望月)を全月とも同じであるとして暦を造る暦法である。

こうした、平均の朔望周期(平均朔望月)を、起点になる朔干支に次々と加えて朔干支を求める暦を平朔暦とよぶ。前節で計算法を見た顓頊暦などの四分暦を含め、古い暦はいずれも平朔暦である。

起点になる月朔を求めれば、あとは平均朔望月を順に加えれば月朔干支が求められるので、この意味では平易な暦法である。

とはいえ、元嘉暦ともなると、見るごとく桁数の多い計算をしなければならないため、手計算によるときは、四分暦などと比べて文字通り桁違いに面倒な暦になっている。

元嘉暦の場合、これに日食計算が加わる。日食計算はもっと面倒である。元嘉暦のような平朔暦に対して、太陽と月の実際の運行に基づいて補正を加えて造られる暦を定朔暦という。

中国の唐の武徳2年(619年)に傅仁均が造った戊寅暦が定朔暦の最初とされる。こちらは平朔を求めたあと、いちいちの月朔について太陽補正と月補正を施して定朔を求めなければならず、平朔暦より数倍(数十倍?)手間がかかる。日本で用いられた最初の定朔暦は下に述べる儀鳳暦である。

なお、元嘉暦による一日の始まりは見た通り午前0時であり(儀鳳暦も同じ)、晨初=午前3時を一日の始まりとしていたはずの顓頊暦とは3時間ずれている。

然るに日本の伝統的な一日の始まりは後者の午前3時であったのであり、後世このため、死去日時や日食日時の把握に混乱を生じた例がある。

 

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