二、牛李の党争
穆宗は傀儡(かいらい)でいる虚しさからか、国を治める意欲をなくして、自棄的に日々享楽に耽けり、政(まつりごと)に携わろうとしなかった。古来中国では、皇帝が臣下であるはずの宰相や貴族の謀反で、難事に遇うことが多く、強力な兵団を持つ臣下の裏切りにより王朝の多くが滅亡した歴史があった。
ところが唐の時代になると戦乱がなくなり世の中が安定したため、武力を持つ優位性が低下し、維持に多額の経費を要する兵力を、臣下から皇帝が取り上げることが可能になり、皇帝は軍事力を一つにまとめ上げ、直属の禁軍を創設した。
しかし、数十万人規模になる禁軍兵力を、皇帝一人で掌握するのは不可能なため、宦官に軍の指揮権を持たせた。
宦官に指揮権を持たせたのは、皇帝の身近にいて監視の目が届き、裏切りを見付け易いのは当然の理由だが、何よりも安心なのは生殖能力がなく、一代限りで権力の世襲ができないことにある。
王朝として完璧とも言える統治体制を確立した唐王朝であったが、戦争のない太平の栄華が長く続いたため、九代玄宗皇帝の頃ともなると軍の備えが疎かとなり、実践経験のない皇帝禁軍は弱体化し、平和に慣らされた官吏も危機意識が乏しくなっていた。 そんな時に起きたのが安史の乱である。
反乱の首謀者は玄宗が北方三州の節度使に任命した安禄山であった。
安禄山は西方のソグド人(ペルシャ系)であり、一介の商人に過ぎなかったが、貢ぎ物を送って玄宗に取り入り、信認を得ると禁軍の騎兵を預かり受け、与えられた北の自領地で安禄山指揮下の傭兵部隊と共に統合訓練を任されるまでの親密な関係性を築いてしまった。
ところが、安禄山は訓練を任された玄宗の兵までも用いて、唐王朝に反旗を飜(ひるがえ)したのだった。
謀反を知った玄宗は、反乱鎮圧のため長安から皇帝直属の羽林軍(うりんぐん)を差し向けたが、平和に慣れ安穏と暮らしていた兵士達は戦意に乏しく、異民族が多く厳しく訓練されて残忍な安禄山軍に全く歯が立たず、僅か一か月で副都洛陽は陥落、残虐な安禄山軍を前に禁軍は敗走を繰り返して離散、消滅してしまった。
安禄山に対抗する術を失った唐王朝が思い付いたのが、傭兵を持つ各地の有力将軍を味方に付けること、地方の最高権力者の称号節度使を濫発することで将軍達を寝返らせ、唐の協力者にすることだった。
策は功を奏し、安禄山の死によって安史の乱は終息するが、後には節度使の称号を持つ藩鎮が各地に数多く残されてしまい、直属の軍隊を持たない皇帝は力を失い、唐の中央集権体制が崩れる、きっかけになっている。