宦官が皇帝擁立に関与するようになったのも、この時から。安禄山に恐れをなして、長安を捨て逃げ出した玄宗には、国を治める能力がないと判断したのも宦官李輔国、渋る玄宗に退位を迫り、玄宗の三男を十代粛宗(しゅくそう)として帝位に就かせたのも李輔国。

さらに李輔国は、粛宗の死後も、粛宗の息子を十一代皇帝に擁立し代宗として帝位に就けており、宦官の力を強固なものとした。

皇帝を飾り物に仕立て上げ、宦官が絶大な力を行使するようになったのは、この時期からである。

皇帝が宦官に与えた軍司令官の印章は、誰の干渉を受けることもなく、自在に禁軍を動かせる証であり、印章を手にした宦官は、各方面に隠然たる支配力を行使し、印章はその後も宦官の手から離れることなく、宦官組織の中で引き継がれるようになってしまった。

他国では類例を見ない中国特有の宦官制度は、当初予想もしない権力を宦官に与えることになり、次代の太子、皇帝選びにまで宦官が深く関わるようにさせてしまった。

穆宗の時、李徳裕は三十三歳にして詔勅の政策、立案を行う重要な役職であり、宰相に次ぐ地位の翰林学士に任命された。

「相も変わらず李逢吉は、藩鎮と話し合えば税は納めてもらえるなどと戯言を言っている」と、腹立たし気に裵度が李徳裕の同意を求めた。

「牛僧孺らは徳宗の時代の困窮した財政を、どのように立て直したか分かっていないのです」

「禁軍を持たぬ徳宗が無理矢理に藩鎮の要求を飲まされたのが、融和政策の始まりなのですから」

「藩鎮は農民から多額の税を絞り取り、僅かな額を中央政府へ上納するだけ、農民はその日の食事にも困っている」

「私欲の塊のような藩鎮を抑え政道を正さなければ、農民が反乱を起こしかねません」

「藩鎮は蓄財に励み、中央を疎(うと)んじている」

「藩鎮どもは牛党に金を送って融和政策を推進するよう画策していると聞きます。恐らく、宰相に刺客を送ったのも牛党の企てに間違いありません」

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