第一章 桜舞う   

万世空港は戦争末期に知覧からだけでは間に合わなくなり、急ごしらえで造られた滑走路だ。四か月しか使用されず「まぼろしの特攻基地」と呼ばれている。

この万世の滑走路から、二五〇キログラムの爆弾を積んだ二人乗り九九式きゅうきゅうしきの襲撃機で、二〇一人もの二十歳前後の幼い顔をした若者が飛び立ち、南の海に散っていったのだ。

九九式襲撃機は、昭和十五年五月に採用された襲撃機だが、皇紀二六〇〇年の命名基準を考えていなかったので、前年の九九式と名付けられた。本来であれば百式と命名されるはずだった。

「皇紀」とは、明治政府が、西暦紀元前六六〇年の神武天皇即位の年を元年と定めた日本独自の紀元で、昭和十五年は皇紀二六〇〇年である。

確かカナダの姉として慕う純子のお父さんは、万世出身だったなあと紗季は思った。家族の多い貧しい漁村や農村では、食べていくにも大変な世の中だった。

カナダ移民の話に乗って一世紀以上前に、鹿児島からたくさんの人たちがカナダへ渡った。特に現在の指宿市や枕崎市、南九州市、南さつま市などから、カナダへ移民として渡った人たちが多かった。純子のお父さんもその一人だった。

「おい、ここにお義父さんが碑に残した言葉があるぞ」晃司に言われて見てみると、

「一日生かば一日生命を 大君の御爲に尽くす、我が家の風」 北原弘次書

と、大きく達筆で書かれた文字があった。

この文字を書いた青年は、いったいどんな思いで筆を取ったのだろう。もう二度と会えないかもしれない家族に残す言葉として、自分の最後の決意を書いたのだろうか。これを書くことで我が家の家風に恥じないようにと、心を奮い立たせたのだろうかと紗季は思った。

「ああ、お父さんはここに来てこの文字に出会い、とても感動したのね。だからお墓の横にあの碑を建てたのね」

と、紗季が言った。ただし、中身は少し違っている。父が遺した碑には、

「一日生かば一日を 人、世のために尽くす 我が家の家風かぜ」 正雄

となっている。残念なことに、父の建てたその碑はもうない。亡くなった義兄は脳梗塞を患ったあと片足に少しマヒが残り、姉のめぐみは緑内障でだんだん目が見えなくなった。

将来ここまで墓参りには来られないだろうと、お墓を更地にして近くのお寺の納骨堂に移してしまったのだ。亡くなった紗季の母親も、あのお墓までは行けないからお寺に移してと生前言っていた。桜島の降灰がひどくお墓が汚れるのが気になっていたのだろう。

晃司はせめてお墓と碑の拓本を残そうと、暮れの寒い時だったがお墓を壊す前に娘の真希に手伝わせて何枚か拓本を取った。それを表装して、姉二人にも同じものを作って渡したのである。