第一章 桜舞う   

喜入きいれのインターチェンジで高速を下り、知覧平和公園を目指した。公園が近づくと、全国から寄贈された灯篭が道の両側に立ち、その横に植えられた桜並木が、見事に満開だった。

ここにある特攻平和会館には、若くして散っていった特攻隊員の遺影や遺品・遺書がたくさん集められ展示されている。全特攻戦死者一〇三六人中、半数近くの四三九人が、ここ知覧基地から出撃していった。

館内には、海中から引き揚げられた戦闘機の、庭には映画の撮影に使われた戦闘機のレプリカが展示されている。多くの特攻隊員に「特攻の母」と呼ばれ慕われた富屋食堂(現ホタル館)の鳥濱トメさんを称えた石原慎太郎の歌碑が立っている。

歌碑には、「短い青春を懸命に生き抜き散っていった特攻隊の若者たちが『お母さん』と呼んで慕った富屋食堂の女主人鳥濱トメさんは、折節にこの世に現れ人々を救う菩薩でした」残骸と書かれてある。

また、特攻隊が最後の晩を過ごしたであろう三角兵舎の見本が建てられていて中を見学できる。平和の釣鐘があり、参詣者が打つ鐘の音が時々庭に響き渡る。いつ来ても、心引き締まる場所である。

「こんな幼い顔をした若者が、日本を守ろうと帰りの燃料もないまま次々に飛び立って、南の空に散っていったのね」

特攻平和会館の中で写真を見ながら紗季が呟いた。そして戦争を体験することなく、今まで平和な世の中に生きてこられたことに感謝した。従兄の亀太郎が特攻隊員だったという話を紗季は最近聞いたばかりだった。彼はその話を戦後生まれの末弟の孝太郎にすら、何も話さなかった。

関西に住む孝太郎が何かの会合に出席した時に珍しい苗字からか、

「もしかして鹿児島のご出身ですか? 亀太郎さんというお兄さんは居られないですか?」

と聞かれ、

「はい、私の兄ですが」

と答えたら、

「私は、亀太郎さんの乗っていた特攻機の整備士をしていました。一緒に全国を転々と回りました」

と言われ、孝太郎はびっくりしたそうだ。その人の話によると、特攻機一機に四名の整備士がついていて、各地の飛行場を回ったらしい。亀太郎は、いがぐり頭でくるっと大きな目が印象的な、まだ十七歳になったばかりの特攻志願兵。明るく飄々として誰からも好かれた。