〝不易信仰〟という病

教育の世界では、よく〝不易と流行〟という言葉が用いられる。しかしそれは、〝不易〟を強調するために用いられることが多い。つまり、「教育には普遍の真理があって、それは社会がどのように移り変わろうとも変わることはない」というわけだ。

私は、こうした一元論的な考え方がどうもしっくりこない。教育を、誰かに何かを伝えるという最も広い意味で捉えれば、

太古の昔から教育は存在していただろう。

それに比べれば現在の日本の学校教育は、たかだか一五〇年の歴史しかない。教育に比べればほんの一瞬だ。それを普遍で永遠のものと考える方がよほど不自然だ。

そもそも、社会の多様化というのは、そこに生きる人々の認める価値が多岐にわたっていることである。それが良いか悪いかという議論をする前に、まずは、現代が多様化社会であることを受け入れなければならない。

例えば、性的マイノリティについて考えればよくわかるだろう。かつて、大人気を博したテレビドラマ「3年B組金八先生」で性同一性障害が扱われたのは、いまから二〇年以上前の二〇〇一年だった。

ドラマをリアルタイムで見た私は、そのときの衝撃をいまもはっきりと覚えている。ジェンダーという言葉くらいは知っていたが、性同一性障害の存在はまったく知らなかった。作り話かもしれないとさえ思った。

しかし、このドラマを一つの契機として、性同一性障害は世に広く知られることになった。私と同じようにこのドラマで初めて知った人は少なくなかっただろう。

その後、性同一性障害は世界の中で認められるようになり、いまや「障害」とすること自体が問題だとされるに至った。

二〇一九年五月に開催されたWHO(世界保健機関)の総会で、「心と体の性が一致しない性同一性障害について、『精神障害』の分類から除外することで合意」(「NHKサイカル」、二〇一九年五月二六日)されたのである。

この例を一つとっても、多様化は個人の特性や権利を保障するために大きな貢献をしたことがわかるだろう。

すなわち、苦しんでいる人がいることが報道などによって示され、時間をかけて、その理不尽さが広く認知されるようになり、問題は問題として人々の間に広がっていく。

最初に問題を提起する人は大変勇気がいると思うが、そうした人々の勇気ある意思表示によって、多くの人に、何が起こっているのかをありのままに見ようとする視点を与える。

このように多様性が進んだ社会は、隠れていた問題の発見を促し、解決すべき問題にまで押し上げ、その後、問題性の毒素のようなものを浄化する働きをする。そうした機運をつくりだせるのは、社会に多様性を認める土壌があるからである。

そういう社会にあっては、教員も自らの固まった価値観を一旦外し、しっかりと子どもに目を向け、子どもの置かれた状況をありのままに見ようとしなければ、子どもの変化に気づくことはないだろう。

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