その年の夏の甲子園出場を懸けた神奈川県大会では英児は1回戦からすべての試合に先発し、ほとんどのイニングを投げ抜いた。完封が4試合、うちノーヒットノーランが1試合で、これまで失点は7試合でわずかに3。エラーがらみの失点さえなければ、もっとすごかっただろう。ノーヒットノーランも、あわや完全試合という内容であった。

さらに打者としてもここまで7試合で3本の本塁打を放ち、打率も4割近い数値を叩き出していた。中学からバッテリーを組んできたキャッチャーの僕は今年から彼の後ろを任され、5番キャッチャーとして英児の背中を追いかけて決勝戦までやってきた。

本塁打は打てていないが、小柄な体躯ながら湘南の海岸を走り込んで鍛えてきた足腰を活かしたフルスイングで、英児を何度もホームベースへ返してきた。相手校が英児を敬遠、すなわちフォアボールで歩かせることを防ぐためには、僕が打つしかない。

今年で卒業する先輩たちは誰一人プロ野球に行くことなどなく、全員が普通の大学に進学し、多くが野球を真剣にプレーするのはこの予選が最後になる。先輩たちに1日でも長く野球をやってもらいたい、そういう気持ちは僕だけでなく英児も持っていた。

立派な部室など持っていない県立日吉台高校だったが、監督の国語科教師、元高校球児の小林先生がご自宅2階建の1階部分を部員たちに開放してくれていたので、その1階の居間で毎日のように僕らは話し合っていた。英児は本気で甲子園に行くつもりだった。

これまでの試合、サインは全部僕が出していた。英児は1回も首を横に振らなかった。さすがに高校2年生になった今は僕も手話が出来るようになっていたが、マウンド上で「打ち合わせ」をするときに手話など使うことは出来ない。分かる人には全部分かってしまうからだった。