戦が終わって間もなく、二代将軍秀忠(ひでただ)公のお名前で武家諸法度、禁中並公家諸法諸(きんちゅうならびにくげしょはっと)が制定された。そして公方さまは太政大臣に任ぜられている。何もかも整えられて、後顧の憂いをはらっての御旅立ちだったのだ。
重綱さまは公方さまの抜かりのない準備万端に、首を振って感心しきりであった。
「これが一、二年早かったら、まだまだ終わっていなかった……」
「運のお強い……」
これで何度目かの同じお話なので、ご返事に心がこもっていなかったかも知れない。それでも重綱さまは気にもとめないご様子だった。ただ独り呟いていただけだったのかも知れないが、でもその一つひとつに、わたくしは律儀に一生懸命考えて、ご返事をしていたのだった。
公方さまが一、二年早く亡くなっていれば、陸奥守さまに天下餅がめぐってきたかも知れない、その可能性は十分にあった、と今でも無念に思われているようなのだ。
戦のない毎日がわたくしには心安らかだ。戦では必ず誰かが死ぬ。十六、七歳の若者が親を残して戦場で果てる。死ぬのは身分の低い者から順だ。流れ弾で戦死したずんつぁまのせがれどのは、よくよく運が悪かった。
「公方さまのご家来たちは、追い腹切るのであろうな。あのお方と……あの方と……」
重綱さまはぶつぶつとご家来衆のお名前を呟きながら、指を折って数えていたものだった。だが重綱さまの予想は大きく外れた。結局公方さまのご家臣で追い腹を切った者は出なかったのだ。まだまだ徳川の体制は盤石ではないというお考えが、総勢の一致するところだったのであろう。
なにしろ片倉家では追い腹切った家士が六名も出たのだ。葬儀が終わらないうちから早々に、腹を切る者がつづいたのだった。
お殿さまは家臣たちに、片倉家の後々のために生きて重綱さまの力になってほしい、とお言葉を遺されたという。家臣たちはそのご遺言を守らなかったことになる。重綱さまはその知らせに何とも表しようのない顔で瞑目したのだった。
「親父どのの後を慕って三途の川を駆け抜けおった」
だが家士の立場として、お殿さまの言葉に果たして素直に従うことができたであろうか。重綱さまは忠義の士であると感動しながらも、一方で追い腹切った面々は初代を慕って二代目を疎んじた、おのれに人望がないからだ、と奇妙にねじれた受け取り方をなさったが、わたくしはそうは思わなかった。