第五条 「野生を育てる」
人形的美少女
一年も経つとE子ちゃんは、その可愛らしい顔立ちや、きゃしゃな姿はそう極端に変わらないにしても、印象としては、けっこうたくましい感じになったのである。
美しい服を汚させまいと泥遊びや野外遊びをさせなければ、子供は、じっと動かない子になる。
幼児というものは、本来、うろうろして、じっとしていないものである。それに幼児は自分が着ているものの形を崩さない事を考えたりしない。どうかすると、びしょびしょ、どろどろにするものなのである。
今時は、子供の数が少なく、子供にお金も手もかけられる人が多くなっている。しかし、親の趣味を強烈に子供に適用するなら、子供の自我の形成は遅れたり歪んだりしてしまうのだ。
わが子を身ぎれいにさせたり、可愛い服を選んだりするのは親の愛情であり、大切な、尊い心である。しかし"度がすぎれば"負の要素となってしまうことを、E子ちゃんの例は教えてくれている。
育て方によっては「低能」に
ペット犬にリボンをつけたり、可愛いコートを着せてあげたりすることは害のある行為ではない。
犬は生まれながらに犬であり、どのような育てられ方をしても「犬」だからである。
私の飼っているゴールデンレトリバーは、「賢い」と言われている犬種である。
しかし、その「賢さ」は自分の生存(エサもらいや散歩)に関連する事に対する抜群の記憶力にすぎず、十年、十五年経っても、ひらがな一つでも自分の生存に関係ないことを覚えることはない。
賢そうな演技をする動物たちは、皆、「えさ」につられて訓練されているのだ。その表情や動作に人間の側で感情移入しているのにすぎない。
犬には知的進歩というものはない。賢いか低能かは産まれついてのもので、育て方で変わることはない。
しかし、人間は、賢く勇気のある自己開発能力の高い人間になる可能性のある資質の子でも、育て方によっては"低能"になるのだ。
E子ちゃんは母親の作った「人形的美少女」の、パラダイスライフに満足していた。
幼い子にとって、母親は「絶対者」である。食物や衣服や寝所を与えてくれ、暑さ寒さや見知らぬ人や物からの危険から守ってくれる絶対的存在である。だから、強く、母親に依存するようになるのだ。
その子の母親が自分の周りに張りめぐらせた世界の善し悪しが、幼児には分かるわけがない。その世界が自分に快適なものなら、その中に安住するのは当然の事なのである。