「最後は人じゃな」
「会合衆ですね」
「そうだ。『日明貿易』『南海貿易』で豪商となった上層町衆は、湊に倉庫を持った為我等のように『納屋衆』と呼ばれておる。その代表は、『会合衆(えごうしゅう)』と呼ばれる自治組織を作り、合議制で運営されておる」
「茶の湯の世界では、室町幕府が所持していた唐物名物道具はその多くが堺に集まり、都・奈良を超える勢いでございます」
「お前も、この千家の跡取りじゃ。将軍家の御伽衆(おとぎしゅう)の一人千阿弥の孫として、新興の納屋衆だが、
『堺三六人衆』(会合衆)の一員となれるよう励むのじゃ」
与四郎は、一七歳で北向道陳(きたむきどうちん)に茶の湯を学んだ。二年後、武野紹鷗(じょうおう)に師事する。その年の暮れ、父与兵衛が他界した。
天文十(一五四一)年、二十歳の時、紹安の母となるなか(宝心妙樹)と結婚。
二十四歳の時、堺の南宗庵(なんしゅうあん)三世大林宗套(だいりんそうとう)より受戒、「宗易」の号を授けられた。
遠く南に目をやる。
天文一二(一五四三)年、中国のジャンク船に乗ったポルトガル人が、種子島に渡来し鉄砲を伝えた。そして六年後、「宮王三郎の茶会」の前年、イエズス会宣教師の、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航し、キリスト教が日本に伝えられたのである。
「黄金の島ジパング」と言うマルコポーロの噂話ではなく、現実の報告書として「IAPAN」の文字が記載された。年に一回ローマに送られたイエズス会宣教師の報告書は、全て印刷され公表される。「ジパング」は本当に存在していたのだ。こうして日本は「ヨーロッパ人の世界史」の一員に組み込まれていった。
その様な時代の話である。
宗易は一年前より、宮王三郎より謡を学んでいる。
宮王家は、申楽大和四座の一つ「円満井座(えんまんいざ)」中興の金春禅竹(こんぱるぜんちく)の分家である。四座とは、現在の能楽の直接の母体で、円満井座(金春流)、結崎(ゆうざき)座(観世流)、外山(とび)座(宝生流)、坂戸座(金剛流)の事である。近江にも六座あったが衰退した。
「お師匠様、昨年は『関寺小町(せきでらこまち)』を稽古させていただきました。中々声を出すのは難しいものでございますね」
「普通は、いの一番にお教えする曲ではございません。弱く謡う『羽衣』や、強く謡う『土蜘蛛』のような短いものから始める方が多いのです。しかし私はそう思いません。難しいものから習い始めた方が、時間の限られた方、集中のできる方には向いております。宗易殿は既に茶の湯を深いところで考えておられる」