- 暴言を支えるもの
残念ながら、教員の暴言は日常的に存在する。
「こんなこともわからないのか」、「小学校からやり直せ」という直接的なものから、「お前も偉くなったものだな」という〝皮肉〟、「勝手にすればいい」などの〝突き放し〟、入試関係の書類を期限までに出さなかった生徒に対して「もうお前の調査書は書かない」と言ったりする〝脅し〟、「何回言ったらわかるんだ」という〝問い詰め〟等々。
言葉だけではない。グラウンドの真ん中や教室内、あるいは職員室前の廊下といった衆人環視の場で、大声で叱責するのを何度も見てきた。
いまにも胸倉をつかみかねない勢いで生徒の前に迫っていくこともある。衆人環視での度を越した叱責は、生徒の自尊心を著しく傷つける。まさに体罰と同じである。
確かに、落ち着いた授業や学級経営を成立させるためには、ある程度の規律と秩序は必要である。規律が緩い学級には、いじめが生まれやすいとも言われる。個々の生徒が好き勝手のやりたい放題では、まともな授業はできない。だから、一定の規律を保つために、時には生徒たちへの叱責は必要となる。
ただ、それが度を越すと教室に重苦しい空気が流れる。多くの教員はすべての子に同じように指導をすることが正しいと信じている。しかし、さまざまな特性や劣悪な家庭環境によって、頑張りたくても頑張れなくて苦しんでいる子への配慮は十分とは言えない。
本当はそういう子ほど、みんなと同じように頑張りたいと切に願っているのだ。それなのに、叱責ばかりされるから、〝できる〟子の何倍も傷つく。
そうした体験がトラウマになり、フラッシュバックを起こし、自分の行動を自分で制御できなくなることもある。
フラッシュバックとは、「ふとしたきっかけで、その出来事がまるで目の前で起きているかのごとく感じられる」(川上、二〇二二年、五七-五八頁)ことである。
教員の多くは暴言を良くないと思っている。他に方法はないかと感じ始めている。それでも続けるのは、学級という集団を維持しなければならないという強い足かせがあるからだ。
学級はどんなことがあっても解体することはできない。その上、すべての責任は学級担任にあるとされる。そうなると、若い教員を中心に焦りと不安が広がっていく。真面目な教員ほど学級を秩序あるものにしようと必死になる。
社会が多様化すれば、生徒も多様化する。しかし、そのことを受け入れきれない教員は、力づくでもいまのシステムを守ろうとする。
このままではいけない、何かおかしいと感じはするものの効果的な対応が思いつかないから、焦り、不安は増大する。その不安がいらだちとなって生徒に向かう。多くの暴言はこのようにして生き残っていく。
良くも悪くも校内暴力が激しかった頃の暴言には迷いがなかった。そうしなければ収まらなかったし、生徒や保護者、地域までもがそう思っていた。
しかし、最近の生徒はおとなしくなった。あからさまな反抗も少なくなった。それでも、暴言が生き残ってきたのは、多くの教員が他に信じられる拠り所を見つけられないでいるからだ。
教員には、システムそのものに問題があるという発想はほとんどない。