従来、ヒトとコンピュータは操作するという関係だった。また、コンピュータはエリートの知能の拡張のための道具だった。そのため、操作するときに認知負荷があっても、エリートには問題なかったのである。しかし、時代を経て、利用者と用途は広がった。ライフラインという必要不可欠の道具になった。それなのに、ヒトの能力とギャップがあるのは問題である。一方、会話モデルは、認知負荷がなく生得的な能力でできる。こちらの方が、コンピュータとのインターフェイスとして、よりフィットする。
コンピュータが、これまでの道具と異なる一つの決定的な違いは、ヒトの言葉を受け入れられることである。後に見るように、複雑な言葉を使うことは、ヒトの特性と考えられる。機械が、言葉を理解できるかのようにふるまう。それはそれまでの道具に比べて、質的に決定的な変化だ。機械がヒトのパートナーとして、歩み寄ってきている。この点をもっと利用することで、会話インターフェイスに近づける。
身体性の回復
ヒト同士は、身体を使って意図レベルで会話する。ヒトの意図は、文字テキストよりも、音声発話のほうが自然に表現される。また、注目を示すまなざし、指差し、肯定・否定の首ジェスチャー、手・腕ジェスチャーなども、意図を表現する。意図レベルでやり取りをする際、道具のほうも、ヒトの身体を相手にしなければならなくなる。なぜならヒトの意図は、身体で表現されるからである。
例えば、ものを運ぶロボットからヒトを見てみる。運搬ロボットにとって、ヒトがスマホのモニターとタッチから出した指示で動くだけでいいのだろうか? 運搬ロボットは、ヒトの歩く通路をヒトと共有する。
ロボットは、ヒトの動きを観察しながら動かないとぶつかったりなどする。機械道具側から見ても、ヒトの身体を相手にやり取りをして、それで初めて目的を達成できることがある。そもそも、機械道具はヒトの環境の一部である。それと同時にヒトの能力の延長でもある。つまり、機械道具はヒトと環境章の接点に居る。ヒトが機械道具と触れるとき、ヒトはカラダ全体を使い環境と会話するということを忘れてはいけない。
ヒトがコンピュータに合わせるのでなく、コンピュータのほうがヒトに合わせる。ヒトが歩くように、誰でもストレスなく生得的な能力でコンピュータを利用する。ヒトが意図したことに、コンピュータが答える。ヒトの意図を軸にやり取りが回るので、ヒトが道具から操作されるということは起きにくい。そのとき、コンピュータはヒトと調和する。