以前孝介が何の連絡もなしにアパートを引き払った時は体に穴が空いたようだった。村木が病気になり、孝介の負担が大きくなったようだが、よし子は自分が孝介の負担なのではないかと思ったのだ。

だから引っ越しても同じ町にいるだけでうれしい。それがたまには会いたいとなり、お客として店に来てほしいとなり、カウンターの隅っこでゆっくり飲んでいてくれるだけでいい、何も話さなくてもいい、孝さんが飲んでいる姿を見たいと、気持ちの中でどんどん欲張りになってゆく。孝さんはそれがお見通しなのだ。だから来なくなってしまった。

もう一つの痛みは孝介の妻が花屋で働いていることだ。店に飾る花はいつも同じ所で買っている。花屋の主人とも長い付き合いだ。いまさら店を替えることはできない。同じ町内だもの。いつも店番をしているのは茶髪にした若い子だった。長靴に長いエプロンをかけて歯切れが良い。

この前、店に行った時はあの子ではなかっただろうか。

取り止めのない考えごとをしながら、花の水を替えようとして手が止まっていた。午後の日差しが明るく店の中まで入っていた。

今度花を買いに行って、孝介の妻に会うにはそれなりの覚悟がいる……

一歩

登校途中の子どもたちの声が止み、静けさを取り戻していた。

美智子はそっとアパートの鍵を回す。

白い綿のブラウスに、はきなれたチノパン、ローファーの靴。よそ行きと言ってもアイロンをかけただけ。そんな美智子が都会でもすっきりと見えた。

誰にも会わずに通りへ出る。徒歩で三十分弱。

夫の孝介は美智子がパートに出ることに反対だった。由布子が学校から帰ったときに誰も居ないのは可哀想だと。

美智子もその気持ちは同じだけれど、田舎だったら近所は知った人ばかりだから話もできる。ここでは二人を送り出して家事を済ませたら、することがない。

田舎では畑の仕事、庭の手入れなど体を動かすことはいくらでもあったのに。狭いアパートの中でじっとしている生活を続け、このままでは窒息しそうだ、由布子を連れて田舎に帰ろうと思い始めたころ、花屋のパートの声をかけられたのだ。

その花屋は、店先に寄せ植えの鉢をいくつも置いている。蔓性のものや細い葉の美しい蘭の種類など、葉の形や色をうまく取り合わせてある。

田舎の庭だったらいくらでも作ることができる。こんなものが都会では好まれるのだと、美智子は通るたびに感心して眺めていた。

花屋の主人が、寄せ植えが好きなんだねえと声をかけてきた。

田舎の庭が懐かしくてと、美智子は笑いながら弁解した。

そんなことから話をするようになり、ちょうど人手が必要になっているから働いてみないかと言われた。子どもが気になるなら、市場から仕入れてきたものを、仕分けするところまででも良い。畑をやっていたなら植物の扱いは得意だろうからと。孝介には事後承諾だった。孝介も美智子の憔悴した様子に気づいていたから、反対はできなかったのだろう。

【前回の記事を読む】「願ったら不幸になる人ができる」想いを振り払った時、彼が娘を連れて後ろに立っていた。